100辞書・辞典一括検索

JLogos

14

善知鳥神社
【うとうじんじゃ】


 青森市安方にある神社。旧県社。祭神は市杵島姫命・多紀理姫命・多紀都姫命・創祀は未詳だが,社伝に大同2年坂上田村麻呂が再建したとある。明治45年の「明治神社資料」では,允恭天皇の時鳥頭安潟(安方とも)という貴人が勅勘を蒙って都を追放され,津軽外ケ浜にやってきてこの地に住み,宗像三女神を祀ったのがはじまりという。一方「明治神社誌料」および「津軽郡誌類」には,斉明天皇4年に渡島蝦夷を改めた阿倍比羅夫が宗像紙を勧請したともしている。当社に藤原定家や西行法師が和歌に詠んだ「うとうやすかた」の伝承地で,世阿弥作の謡曲「善知鳥」など,中・近世の文芸の題材としてよくとりあげられた。ウトツはウミスズメ科の海鳥で,北部太平洋岸一帯に群生していたという。このウトウを主人公とした善知鳥安方伝説については,江戸期以来人々の関心を引き,多くの論考がある。伝説の骨子は,昔鳥頭中納言安方がこの地に配流され,その子も南国の果てに流されたが,ふたたび会うこともなくそれぞれの地で没した。ところが死後,安方の墓の上に今まで見たこともない鳥が飛び来って,親鳥が「うとう」と呼ぶ子鳥が「やすかた」と応えた。それを聞いた村人たちが,これはきっと鳥頭父子の生まれ変わりに違いないと思い,堂を建立して二人の霊をなぐさめた,というもの。定家が「みちのくの外ケ浜なる呼子鳥鳴くなる声はうとうやすかた」と詠じたのも,この伝説によっている(夫木抄)。現在境内にある小池は,むかし安潟という広大な湖沼のあった名残と伝えられる。安潟は,現在堤川の上流となっている荒川がかつて注ぎ込んでいた湖沼で,周囲5,6里ほどもあったという。荒川が堤川の方に流れを移されるようになってから,江戸前期以降徐々に干拓されて水田となったらしい(青森市史)。当社がはじめ弁財天として寛永18年に3代藩主津軽信義によって建立されたとする「津軽一統志」の記載は,当社の創祀を示していると考えられる。おそらく,安潟がまだ沼地であった中世末から近世初頭に,この池の水田化を推しすすめていった弘前藩と住民たちが,洲中の小鳥に弁財天を祀り,農業の神としたと思われる。その後,ウトウという鳥名や安潟の名から,中世以来の善知鳥安方伝説が結びつき,その伝承地となったのであろう。一説に,祭神の市杵島姫弁財天は,安潟のほとりにあった善知鳥山養川(泉)寺の境内社として祀られていたともいう。養川寺は寛永年間に廃絶し,あとに残った弁天祠を,寛永18年藩主信義が再興,藩の祈願所とした(国誌)。しかし「青森市史」社寺編によれば,養泉寺は真言宗大円寺(弘前市)末で,寛永17年に大日坊連海が開創し,天保年間に廃絶したとあり,こちらの方が事実に近いと考えられる。同書に寛文年間頃は修験年間頃は修験湯殿山の末であったといい,開山の連海もその名前から修験に属していたことが推定される。天明8年に幕府巡見使に随行してこの地にやってきた古川古松軒は,その著「東遊雑記」に「善知鳥の社」を実見して「方一間半の麁相の小社」と記し,またその「傍らに宗像明神といふ社あり。是は御領主津軽候の御建立の社」としている。当時は善知鳥社と宗像社(弁天社)との2社があったとすれば,善知鳥安方伝説の流布を背景として,これ以前に善知鳥社がつけ加えられたと見ることができよう。江戸期を通じて,青森の鎮守は毘沙門堂(現香取神社,青森市長島)であり,藩主は毘沙門堂に青森鎮守の神輿を安置していた。しかし明治期の神仏分離のため毘沙門堂は廃されて香取神社と解消した。かわって青森鎮守は,明治4年当社に定められ,神輿も移座した(青森市史)。明治6年郷社となり,同9年県社に列格。明治43年の青森大火のため,社殿は全焼,再建後,昭和20年の空襲で再び焼亡した。現在の本殿は昭和30年に造営されたものである。青森市民の氏神として,正月の初詣でには大変な人出でにぎわう。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7010091