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龗神社
【おがみじんじゃ】


八戸市内丸2丁目(旧八戸城二の丸)にある神社。旧村社。祭神は高龗神。明治初期まで法霊社または法霊大明神と称したが,神仏分離により現社名に改めた。しかし現在でも「法霊さん」が一般的である。当社には法霊とう修験者が雨乞いのために八戸城近くの沼に身を投じたという伝承があり(八戸祠佐嘉志写,八戸市立図書館蔵),本来は水神信仰にちなむ神社だったと考えられる。また八戸城築城以前から存在し,八戸村の産土神だったと推定できる。築城後は城の館神として祀られたものと思われ,「雑書」の承応2年4月18日条に「八戸御館神法領」,同書翌19日条に「別当大善院」という記事がみえる。もと本丸に鎮座していたが,寛文4年の八戸藩創設とともに現在地に移転していた(同前)。寛文5年の無量院御立願状に「一〈御城二ノ丸〉宝領神 戸張銭堂納事」と見える(常泉院文書/八戸市史)。宝暦5年の堂林寺門間数改書上帳(同前)には「一法霊大明神御堂……寛文六年午九月廿日御建立」とあり,別当は大寿院である。文化12年8月には法霊の150年に当たるということで100年の時と同様の祈祷が命じられている(八戸藩日記/八戸市史)。社領は明暦4年掃除料として20石が寄進され,年貢の他諸役免除されたが(八戸郷土誌),貞享3年10石に減じられ(八戸藩史料),文化年間の八戸藩士分限帳(内史略)にも「一,十石 法霊別当」と記されている。しかし,嘉永7年の御家中分限并本座列帳(八戸市立図書館蔵)には「一〈社料〉弍拾石〈法霊別当〉法明院」とあり,この間に旧に復した。八戸藩の最も重要な祈願所の1つで,藩命によりしばしば日和乞・雨乞・風神祭の祈祷を行っており,寛政2年2月には他の5寺社とともに毎年正月中国家安全・五穀豊饒・漁乞の祈祷を行うよう命じられ,その際20貫文の祈祷料が備えられた(八戸藩日記)。また同6年5月には風神祭日和乞を,6月には百姓の祈願で五穀豊饒を,7月には雨乞をそれぞれ祈祷している(八戸藩勘定所日記/八戸市史)。祭礼は八戸藩創立以前から行っていたものらしく,「八戸藩日記」の寛文7年7月30日条にしし踊りの催されたことが記されている。延宝7年6月祭礼日が7月19日と定められ(八戸藩日記),享保5年12月の藩命で家中の士からその僕婢に至るまで1人につき10文を寄進し神輿が建立された(同前)。翌6年から祭礼日は7月19日から21日までの3日間とされ,初めて長者山三社堂(現長者山新羅神社)へ神輿渡御の行列が行われている。宝暦8年4月連年の凶作による町家困窮のために通輿を5年おきにするよう藩から命じられたが,かえって町家の商売に差し支えるということで,以前のとおり毎年通輿となった(同前)。文政8年からは1日くり下げ,7月20日から22日までと改められている。長者山新羅神社・神明宮とともに行われる現行の八戸三社大祭はこれを継承したもので,毎年8月1日から3日間行われる。現在の本殿は文政8年の再建(棟札)。明治維新後村社に列格。明治6年東隣の内丸八幡宮を合祀した。内丸八幡宮は正徳2年の創祀と伝え(国誌),明治維新後の町名改正で生じた八幡町(旧本丸と旧二の丸の地)の名はその存在による。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7010302