角川日本地名大辞典 東北地方 青森県 25 北郡【きたぐん】 旧国名:陸奥 (近世)江戸期~明治11年の郡名。陸奥国のうち。中世は南部氏の領地である糠部(ぬかのぶ)郡に属した。天正18年南部氏26代南部信直にあてた領知安堵の朱印状に「南部内七郡事大膳大夫可任覚悟事」とあるが,この七郡については,北郡・三戸郡(以上現青森県)・二戸郡・九戸郡・閉伊郡・岩手郡(以上現岩手県)・鹿角郡(現秋田県)とする説と,和賀郡・稗貫郡・志和郡・岩手郡・閉伊郡・鹿角郡・糠部郡とする説の2説があり,近年では後者が有力視されつつある。江戸期は全域が盛岡藩領。北郡の初見史料は,寛永11年閏7月12日付の「領内郷村目録」および同年8月4日付の将軍徳川家光から南部重直に賜った領知判物(盛岡市中央公民館蔵)で,「陸奥国北部・三戸・二戸・九戸・鹿角・閉伊・岩手・志和・稗貫・和賀十郡,都合拾万石〈目録在別紙〉事,如前々全可令領知之状如件」とある。「正保郷村帳」によれば,北郡は,百石(ももいし)・高屋敷・下田・吉田・鶴食・犬落瀬(いぬおとせ)・大阪・伝法寺・米田・滝沢・大不動・切田・沢田・奥瀬・三本木・洞内・鳥屋部・七戸・新館・大浦・花松・馬洗場・板橋・天魔館・野辺地・馬門・横浜・倉内・平沼・鷹架・尾駮・中沢・奥内・田名部(たなぶ)・田屋・目名・砂子又・蒲ケ沢・安渡・城ケ沢・川内・脇沢・奥戸(おこつぺ)・大間・大畑・河代・長屋・尻労(しつかり)・猿ケ森・白糠・内・長後(ちようご)の計52か村,村高合計4,784石余(田3,125石余・畑1,658石余)であった。「貞享高辻帳」によれば,村高合計5,983石余,「安静高辻帳」では同じく1万1,077石余となっている。なお,「邦内郷村志」によれば,当郡を七戸通(七戸県)・野辺地通(野辺地県)・田名部通(田名部県)とに分け,七戸通24か村,野辺地通4か村,田名部通37か村で計65か村,村高合計1万1,832石余(うち給地2,503石余)とある。また,同書によれば,総家数6,081,馬数8,474・牛数(田名部通のみ)3,411であった。七戸通は大豆と馬の生産を中心とし,野辺地通は盛岡藩の最大の貿易港である野辺地湊に依存し,田名部通はヒバ材と俵物の移出を中心として生計を営んできた。明治維新に際し,盛岡藩は明治元年12月城地を没収され,当郡は維新政府直轄地となり,弘前藩取締のもとに置かれた。しかし,旧盛岡藩領のうち二戸・三戸・北の3郡の民衆が蜂起して弘前藩取締の管轄下になることに反対を表明したために,翌2年2月下野黒羽藩取締へ管轄が代わっている(岩手県史)。なお,この黒羽藩取締はのち北奥県と称したという。明治2年5月盛岡藩の支藩である盛岡新田藩(1万1,000石)が七戸に居所を定め,七戸藩と称するようになり,それまで盛岡藩の蔵米から支給されていた領知を当郡内七戸通6,700石と五戸通のうち14か村(13か村とも)・4,300石のあわせて1万1,000石の所領を確定した(同年の陸奥国北郡之内郷村高帳では38か村・1万384石余とある)。ただし,所領の確定は幕末(文久3年頃)のこととする説もあり,その時期については明確ではない。こうして当郡は,黒羽藩取締の政府直轄地と七戸藩領とに分割された。黒羽藩取締の地は,明治2年8月九戸県となり,同年9月13日八戸県と改称したが,数日後の同月19日にはさらに三戸県と改称された。同年11月3日,所領を没収されていた旧会津藩主松平容保が赦免となって家名再興が許され,嗣子容大が当郡および三戸郡・二戸郡のうちで3万石を与えられ,斗南(となみ)郡が成立する。藩庁ははじめ三戸郡五戸に置かれたが,明治4年当郡の旧田名部代官所に移され,旧会津藩士たちも田名部を中心とする当郡村々へ移住してきた。斗南藩の所領は明確に伝えられておらず,村数については「青森県歴史」が46か村・草高8,729石余(県史8),「岩手県史」が野辺地通12か村,田名部通36か村,三戸郡にもまたがる五戸通19か村とし,「斗南藩史」は27か村,「近代化のなかの青森県」は35か村と推定し,「旧高旧領」では48か村とする。村数の把握の仕方の違いによるものであろうが,当郡では七戸藩領を除いた村々が斗南藩領となったものと考えられる。この結果,当郡は七戸藩領と斗南藩領になった。そして,明治4年7月14日廃藩置県により両藩はそれぞれ七戸県,斗南県となり,同年9月4日両県は弘前県に統合され,さらに弘前県は同月23日青森県と改称し,以後当郡は青森県に所属することになる。同6年大区小区制施行により,旧田名部通は第6大区,旧七戸通・野辺地通は第7大区に編入された。明治初年の「国誌」によれば,第6大区は5小区からなり,大区会所は田名部町に置かれ,管轄は33か村,戸数4,363・人口2万4,476,第7大区は7小区からなり,大区会所は七戸町に置かれ,管轄は50か村,戸数6,893・人口4万3,041とある。また同書は,当郡の概況を「当郡は東北の隅にありて二面に海を受け二面は山なり,内六大区は北に出,大尽小尽諸ひの木山に成て一の大山と成り,四方海水り東南の方僅に七大区に続き半島形をなす,村落は半島になる海汀にあり,七大区は西に高山あり,東は東溟に臨み,内地は曠荒空潤にして籔沢林木ありて不毛の地多く,東は海,南は三戸郡に界,西は津軽郡,北は蝦夷峡角なり,方境は本国を二として津軽郡其の一に居其の半を二分して其の一は北郡の地なり,風俗不同あり,七戸・野辺地・田名部辺は富商あり市街ありて衣服飲食稍好醜あり,盛衰あれとも旦文事もなきに非す,中に田名部は近歳斗南の藩たりし時より商農の業開け,川内村辺の在々に至ても稍文事を好む者あれ共,半島海岸七戸海瀕等村々に至ては鄙野絶倫,然れとも農を勉め漁猟をなし材を出し産を建る者ある,内地市中の巨商に勝る者あり」と記す。明治11年郡区町村編制法の施行に伴い,第6大区が下北郡,第7大区が上北郡となり,北郡の名は消滅した。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7010674