100辞書・辞典一括検索

JLogos

9

北浜街道
【きたはまかいどう】


八戸と田名部・川代(かわだい)(むつ市)を結ぶ街道。八戸から太平洋沿岸を北上し,百石(ももいし)-岡三沢(三沢市)-平沼-尾駮(おぶち)(以上六ケ所村)-白糠(しらぬか)-小田野沢-尻屋(以上東通村)を経て,川代で北通(大畑道)に合流する。小田野沢からは砂子又(東通村)を経て田名部(たなぶ)(むつ市)へ至る街道もあり,この方が交通量は多かったと思われる。嘉永7年の「南部盛岡藩領内絵図」には白糠-小田野沢-田名部間は「東通」とみえる。八戸-小田野沢-田名部間は国道338号に,小田野沢~尻労(しつかり)(東通村)間は県道尻労小田野沢線の路線にほぼ相当する。尻労-尻屋-川代間はその他の村道・市道にそれぞれ相当するが,現在道筋のない部分もある。名称の由来は,八戸から太平洋沿岸を北上する浜通で,北通に接続するため北浜街道と称されたものであろう。慶安2年の「大道筋」(奥州之内南部領海陸道規帳)によれば,海辺道は八戸-百石-平沼-尾駮-白糠-猿ケ森(東通村)-尻労-尻屋-大畑間,距離は33里半である。江戸期末の「北奥路程記」では,大畑から八戸へ南下すると記すが,距離は33里11町7間となっている。川代~大畑間は約1里であるので,北浜街道は約32里であったものと思われる。この街道中には八戸方面から順に,馬淵(まべち)川・五戸川・市川(現奥入瀬(おいらせ)川)があり,船渡し・架橋・徒渡りとなっていた。また,倉内沼(現小川原湖)・平沼・尾駮沼の3沼はいずれも徒渡りであった。酒木・物見(ともに不明)・浜根井(三沢市)・泊之中小崎(六ケ所村)・尻屋崎・青部崎(ともに東痛村)には船遠見番所が置かれた。尻労~尻屋間の青部山は1里の間大難所で,道の広さが2尺,狭い所では1尺,夏冬とも牛馬の通行はないとみえる。尻屋~大畑間の岩屋には岩穴があり,長さ16間・高さ2間・広さ2間で,荷付の牛馬が往来するとある(大道筋)。駄賃については不明な点が多いが,天明8年の御巡見御通行里数夫駄ちん覚には,平沼~岡三沢間は本馬157文・軽尻101文・夫賃77文,岡三沢~下市川(八戸市)間は本馬108文・軽尻70文・夫賃52文,下市川~八戸町札之辻間は本馬84文・軽尻56文・夫賃43文とある。また,天保9年の「御巡見使通行筋」によれば,田名部・小田野沢間4里33丁,本馬151文・軽尻102文・夫賃74文・小田野沢~泊り村間3里半,本馬105文・軽尻67文・夫賃52文・泊り村~尾駮村間3里半,本馬105文・軽尻67文・夫賃51文,尾駮村~平沼間2里11町,本馬157文・軽尻130文・夫賃34文,平沼~岡三沢間3里半(駄賃は記載なし),岡三沢~下市川間3里18町,本馬108文・軽尻70文・夫賃52文とある(内史略)。北浜街道は一般には各浜間の連絡路として使用されたが,幕府巡見使が通行するために重視されたものと思われる。巡見使一行は弘前藩領から奥州街道を通って野辺地(野辺地町)に入り,田名部通を北上して田名部に至った。田名部からは小田野沢へ出て,北浜街道を南下し下市川から八戸藩領に入り鹿角街道へ抜けるのを通例とした。「東遊雑記」によれば,天明8年8月28日田名部を出発した巡見使一行は,田名部から3里半の小田野沢で休み,泊(六ケ所村),尾駮を経由して平沼,岡三沢,市川(下市川)でそれぞれ止宿し,八戸を経由して鹿角街道に入り,剣吉(名川町)を経て三戸(三戸町)に止宿した。なお,同書では八の戸川(馬淵川)に長さ180余間の大橋が架かることを記し,天明8年以前に馬淵川には架橋されていたことがわかる。江戸後期になると異国船の出没に伴い,盛岡藩では沿岸警備に力を入れた。尻労には台場が置かれ,3貫目のホウイッスル1門,2貫目の保全筒1門,1貫目の擠筒1門の計3門の大砲が備え付けられている(田名部録)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7010688