切田
【きりだ】

旧国名:陸奥
八甲田山系のすそ野にあたる緩やかな丘陵にあり,相坂川(奥入瀬(おいらせ)川)の支流切田川(古くは折紙川)と三ツ又川沿いに位置する。地名の由来は,気田姓が多いこと,「気田ヲ古ヘキタト訓ズ,キタ又切田ニ転ズ」(切田氏系図)とあることなどにより,気田にちなむものであると考えられる(切田郷土史)。奥入瀬川南岸の河岸段丘にある姫居(ひめおり)からは,弥生時代の壺形土器が出土している。この土器によって当地方における弥生文化の存在が初めて確認された。室町期に切田氏が当地を支配するようになり,切田兵庫介に至って,南部「信直公ニ仕ヘテ五戸切田村ニ四百石ヲ賜フ」という(切田氏系図)。慶長3年の館持支配帳にも「〈五戸切田館〉四百石〈三柏月ニ星〉切田小太郎」とある。この館跡が上館のものともいわれるが,外ノ沢にも未調査の館跡があり,一郭に寺屋敷の名が残されている。下切田に切田氏の勧請という正法寺・切田八幡宮がある。正法寺については「曹洞宗,陸中国鹿角郡大湯村大円寺ノ末派ニ属シ,天正五丁丑年三月僧宗祝創建ス」(上北郡村誌)とあり,鎮護山と号し,本尊は釈迦如来。切田八幡宮については「祭神応神天皇,天正元年八月十五日気田弾正親正建立ス」(同前)とあるが,「国誌」では天正7年正月の勧請とする。慶長初年と推定される10月6日の南部信直書状に「七戸より洞内迄もち候者,あれより河はたまてもち候やうニことハり申へく候,河はたより沢田・切田・米田・伝法寺・新田まてもつ申候,新田より三戸へもつ申候」と見え,信直は木村杢に対して当地などを経由して材木を三戸に送ることを命じている(木村文書/岩手県戦国期文書Ⅰ)。
【切田村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【切田(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7010724 |