100辞書・辞典一括検索

JLogos

22

櫛引八幡宮
【くしひきはちまんぐう】


八戸市八幡にある神社。旧郷社。祭神は誉田別命・天照皇大神・天児屋根命,ほか10数神。南部氏の氏神・盛岡藩の総鎮守で,奥州二宮または南部一宮と呼ばれ(奥州一宮は宮城県塩釜市の塩釜神社),盛岡・八戸南部領随一の神社である。八戸城の南西に位置し,根城の地(根城南部氏の本拠)へ通ずる国道104号(三戸街道)東側に所在する。寛政年間の「邦内郷村志」によると,仁安元年9月加賀美二郎遠光(南部氏遠祖)が甲斐国巨摩郡南部荘に新羅三郎義光を祀八幡宮を創祀し,承久2年になって戦功によって奥州糠部郡を所領とした南部光行が家臣津島平治郎に命じて滝沢村(十和田市)に勧請,その後現在地に遷座したという(南部叢書5)。「南部史要」は建久2年南部実光(光行の子)の勧請で,貞応元年櫛引村に移ったとする。また別伝では当初は三戸郡南部町の八幡宮(本三戸八幡宮とも称す)に勧請されたとするなど(御領分社堂),創祀には未詳な点が多い。南部氏と当地との関係は元弘3年根城南部氏4代師行の奥州下向に始まるとされ,その頃本領である甲斐国南部荘から勧請したとも考えられる。師行が祭祀を復興し,流鏑馬の神事を始めたと伝えるのも(三翁昔語),その反映かもしれない。いずれにしても,所在地からみて根城南部氏によって氏神として創祀されたことは確かである。なお当社は四戸八幡宮とも称すが,これは櫛引村を領していた光行の四男宗朝が四戸氏を称したためという(同前)。正平21年8月15日の四戸八幡宮神没注文案によると,この時にはすでに放生会に流鏑馬・相撲・競馬が行われ,「一番 四戸,二番 八戸,三番 一戸」というように15番までの神役が定められている(遠野南部文書)。応永22年三戸南部氏13代守行が再興したという(邦内郷村志)。このことは根城南部氏の努力が衰え,代わって傍流の三戸南部氏の勢力が強くなったことを示している。「雑書」の正保元年8月5日条に「櫛引八幡ヨリ濁酒之神酒両樽則別当持参シテ上ル」とある。また同書正保元年9月14日条によると,藩主の代参として33騎の参詣があり,神馬3疋・太刀1腰の代金300文が「岩鷲別当養海」に渡され,承応2年7月13日条でも33騎の参詣とともに神馬3疋・初穂代9貫900文が奉納されている。寛文4年の八戸藩設置以後も当社がある八幡村は八幡藩領にとり囲まれた盛岡藩の飛地となっており,当社は盛岡藩設置直後からは藩の総鎮守として崇敬されたと考えられる。文化2年8月には藩主が微行で参拝している(八戸藩勘定所日記/八戸市史)。江戸末期の南部領寺社鑑写に「一〈三戸櫛引八幡宮御社領〉千三拾九石余〈内七拾弐石現米〉」とあり,藩内最大の社領を有していた。また寛永11年・慶安5年の寺院支配帳にも同様の社領が記されており(岩手県史),社領は近世を通じて一定していた。別当は天台宗上野寛永寺(東京都台東区)末の普門院で,御許山神宮寺と号した(南部領寺社鑑写)。衆徒は坂本坊・本覚坊・竹内坊・藤本坊・桜林坊・吉水坊の6坊があり,神主は松田左門と称し,ほかに神事の獅子役として禰宜1人,神楽男に社人5人,八乙女8人,宮仕子1人がいた(邦内郷村志)。別当普門院は当初八幡氏,中世には赤沢氏,江戸末期から小笠原氏を称し,現在57代目という。「北奥路程記」所収の図によると,近世末期には境内が東西25間・南北30間の柵で囲まれ,表門のほかに東西に門があった。境内の中央に拝殿・幣殿とそれに続く本殿があり,東西7間4尺・南北7間の玉垣がめぐらされていた。本殿の左右脇に春日社,神明社があるほか,背後には稲荷・白山両社が並ぶ。境内東には鐘桜・御宝蔵・大黒堂・権現堂・雷堂・御仮宮の諸建造物があり,西には上下の籠堂・護摩堂・馬頭観音堂・虚空蔵堂・毘沙門堂が配されている(南部叢書7)。このうち本殿(県重宝)は慶安元年3代藩主南部重直の造営といわれ,「雑書」同年9月4日条に遷宮の記事が見えている。宝永2年・延享年間に大規模な修理が行われたと伝える。三間社流造で,向拝や蟇股に唐獅子・動植物の極彩色の彫刻が施される。ほかに末謝神明宮本殿・同春日社本殿・長床・表門(南大門)も県重宝。祭礼は旧暦4月15日と旧暦8月14・15日で,4月15日には湊村場尻まで御浜入の神輿渡御があったが,根城南部氏時代には時々八太郎村の蓮沼明神への渡御があったともいう(八戸郷土史)。8月14・15日の例大祭では三戸・七戸・遠野の家中の士が流鏑馬を奉納した。所在の農民が作った八幡馬はこの日境内で売られていたもので,郷土玩具として有名である。社蔵の赤糸威鎧兜大袖付(付唐櫃)は長慶天皇御料と伝え,鎌倉末期の名作。別名「菊一文字の鎧」と呼ばれ,由来は明確ではないが,豪華さにおいては奈良春日大社の赤糸威大鎧と東西の双璧と称される著名なものである(国宝)。白糸威褄取鎧兜大袖付(付唐櫃)も国宝。卯の花威とも呼ばれ,南北朝期の作。正平22年根城南部氏7代信光が後村上天皇から恩賞として賜ったもので,のち応永18年に10代光径が秋田庶季を討った時に着用凱旋して奉納したといわれる。また柴糸威肩白浅黄鎧兜大袖付(鎌倉末期)と兜浅黄威肩赤大袖2枚付(室町期)は応永24年と銘記された経櫃の中に保存されていた。いずれも国重文。唐櫃入白糸威肩赤胴丸兜大袖付(国重文)は小桜威とも呼ばれ,後亀山天皇御料と伝える。室町期の作。ほかに永徳2年備州長船幸光作の日本刀1口,応永12年・正保3年の鰐口,鎌倉期~室町期と推定される舞楽面9面はいずれも県重宝。これらの社宝について,天明8年幕府巡見使に随行して当社を訪れた古川古松軒は,「江戸を出でしより当八幡宮の太宝物第一にて,世にめずらしき物を一見せしことなりし」と述べている(東遊雑記)。境内にある明治記念館(市文化財)は明治12年八戸小学校講堂として現八戸市役所前に建てられたもので,同14年明治天皇東北巡幸の際行在所となった。のち市立図書館に転用されたが,近年当社境内に移築した。八戸藩の大工棟梁であった青木氏の後裔の手になる木造洋風建築である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7010738