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黒石街道
【くろいしかいどう】


弘前と黒石を結ぶ街道。弘前から和徳(わとく)-境関(以上弘前市)-日沼-八幡崎-猿賀-尾上町(以上尾上町)を経て黒石に至るが,日沼から新山(尾上町)-田舎館-高槻(以上田舎館村)を経由して黒石に至る道筋もあった。弘前~日沼間は国道102号,日沼~尾上間は県道尾上日沼線,尾上~黒石間は乳井通と同じで,主要地方道大鰐浪岡線,日沼から田舎館を経由して黒石へ至る道筋は国道102号の路線にそれぞれほぼ該当する。街道の名称は,目的地黒石の地名にちなむ。元禄7年御国中道程之図には,弘前-尾上-黒石間を「黒石海道」と記す。また,羽州街道の藤崎から川辺(田舎館村)を経由して黒石へ至る道筋も黒石街道と呼ばれた。「慶安2年道筋帳」によれば,小道の1つとして和徳から境関-日沼-猿賀-中佐渡(尾上町)までが記され,当時は中佐渡から乳井通へ出て,黒石へ向かったものと思われる。猿賀から尾上を経由して乳井通へ出るようになったのは少し後のことであろう。延宝9年の御郡中駄賃定には,弘前から黒石までの距離は3里とあり,尾上を経由した道筋と考えられる。天保8年の御郡内所々街道駄賃御定では,弘前-尾上-黒石間の距離は3里16町48間3尺となっている。また「慶安2年道筋帳」では,小道の1つとして日沼から田舎館-高日-おっこのき(追子野木)を経て山形方面へ至る道筋が記されているが,この道筋では,追子野木の手前で乳井通に合流し,黒石へ向かったものと思われる。境関と日沼の間には平賀(平川)があり,広さ35間,深さ2尺5~7寸,船渡しであった。乳井通の黒石へ入る直前には黒石川(浅瀬石(あせいしし)川)があり,広さ23間・深さ1尺4~5寸で徒渡りとなっていた。天保8年の御郡内所々街道駄賃御定では,弘前~尾上間は本荷夏65文・冬84文,軽尻夏43文・冬51文,歩行夫夏32文・冬42文,尾上~黒石間は本荷夏14文・冬18文,軽尻夏10文・冬13文,歩行夫夏7文・冬9文とある。明暦2年の黒石津軽家の成立とともに,黒石には陣屋が置かれ,黒石街道は重要視されるようになっていった。初代津軽信英は弘前藩4代藩主津軽信政の後見として黒石から,当街道を弘前へ出かけた。信英は死後,黒石へ埋葬されたが,その廟所には弘前藩から藩主の名代として藩士が代参に訪れており,その際当街道が利用された。一方,享和2年に9代藩主寧親は中野不動尊(中野神社)への参詣に尾上経由の黒石街道を通行している。文化9年には,寧親は温湯(ぬるゆ)(黒石市)へ湯治に出かけているが同じ道筋を通っている(国日記)。黒石以遠の浅瀬石川沿いの村々は山形と呼ばれ,葛川(くずかわ)~切明(以上平賀町)まで道が続いていた。「手本山形道中記」はこの道筋を山形路と記している。途中に温湯・板留(黒石市)などの温泉があるため,弘前藩士はしばしば湯治に出かけており,当街道と山形路はそのために数多く利用された。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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