角川日本地名大辞典 東北地方 青森県 34 五戸通【ごのへどおり】 旧国名:陸奥 (近世)江戸期の盛岡藩の通名。同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ。三戸郡・北郡のうち。「邦内郷村志」では五戸県と見える。奥入瀬(おいらせ)川・五戸川流域に位置し,西部は奥羽山脈の山地をなし,東は太平洋に面する。当通の設置年代は未詳であるが,「邦内貢賦記」の天和2年のものと推定される記事に当通の名が記載されていることから,この頃までにはすでに存在したと考えられる。「岩手県史」5では,寛文6年~天和3年の総検地実施過程で確定されていったものと推定している。「邦内貢賦記」によれば,所属の村は上市川・下市川・切谷内・大森・百石・吉田・犬落瀬・大坂・小平・伝法寺・藤島・沢田・大不動・米田・五戸・又重・中市・石沢・兎内・七崎・志戸岸・豊間内・野沢・扇田・浅水・手倉橋・西越・折茂の計28か村,惣高は6,709石余,うち2,904石余の諸役御免(ただし物成は上納),平均年貢率は2割6分余,年貢収納米は1,745石余(内大豆380駄),ほかに15か村の金目高636石余,年貢金517匁,諸役上納物に正月御礼金,同御立木,同ヘリナシ,五月御礼金,御立木,イモホド代,江戸御供夫,詰夫,御材木金,御小者金,御馬買衆御入方代,粒荏,麻糸,御鷹餌犬があった。「邦内郷村志」によると,所属村は三戸郡浅水・五戸・兎内・大森・扇田・豊間内・志戸岸・楢崎・切谷内・上市川・手倉橋・西越・石沢・又重・中市・戸来・北郡伝法寺・藤島・相坂・下市川・百石・下田・下吉田・上吉田・犬落瀬・折茂・米田・切田・沢田・滝沢・大不動・奥瀬の計32か村,総高は1万4,170石余で,うち寺社給地800石余,安永9年の戸数4,041,寛政9年の馬数8,328。「本枝村付並位村」では,享和3年の村数37(三戸郡18・北郡19),家数2,795。「天保8年御蔵給所書上帳」では村数36,総高は1万4,359石余で,うち御蔵高4,915石余・御免地高108石余・給所高9,336余。慶安3年の五戸通御役高書上帳(五戸録/五戸町誌)では三戸郡18か村・北郡18か村の合計36か村,ほかに北郡に無高の天ケ森村1か村があるとしている。通内の下級行政区域としては,七戸通には御町通などの通が知られているが,五戸通については不明。慶安3年の御年貢米御帳(同前)には五戸通と六戸通を区別して記載している。代官所は五戸村に置かれた。代官の設置年代は不明であるが,慶安5年の御支配帳には,後年の五戸通の行政区域に浅水御代官として山口金右衛門・江柄五郎兵衛,五戸御代官として木村杢助・摂待忠兵衛がみえており(岩手県史),江戸初期には五戸通地域に両代官が配置されていたことが知られる。なお,五戸代官の木村氏は江戸初期より延宝7年に盛岡へ移住するまで,五戸代官を世襲しており(参考諸家系図,盛岡市中央公民館所蔵),五戸代官所そのものも木村氏の居館であった五戸館に築造されたものであった。石高は,慶応3年の「五戸通御代官所惣高部分一ケ村限仕付不仕付古荒川欠高書上帳」(五戸録/五戸町誌)によれば,総高1万7,529石余,うち1斗余は又重野守給高預地,127石余は川欠,646余は古荒,788石余は不仕付,1万6,266石余は仕付となっており,ほかに3石余の下田覚左衛門領の天ケ森村(無高)があった。また蔵入高・給所高の割合は,5,336石余が蔵入高,9,748石余が給所高,800石余が寺社高,215石余が与力高で,ほかに3石余の下田氏領天ケ森村(無高)となっていた(五戸通御役高書上帳/五戸町誌)。給所高と与力高のうち,五戸通の在地給人の数は,慶応3年には給人81・役医2・与力23・同心12の合計118人であった(五戸通御給人御役医御与力座順帳/五戸録)。蔵入地平均税率と年貢高は,慶応3年の御年貢米御帳(五戸録/五戸町誌)によると,豊間内・志戸岸・七崎・扇田・野沢・浅水・手倉橋・西越の8か村が高883石余・引合(年貢率)3割8厘6毛・年貢高272石余,又重・中市・石沢・兎内・五戸の5か村が高2,444石余・引合3割5分7厘6毛・年貢高874石余,大森・切谷内・上市川・下市川・百石・下田・上吉田・下吉田・犬落瀬・折茂・相坂・藤嶋・切田・沢田・滝沢・米田・伝法寺・小平・柳町・鶴喰の20か村は高2,195石余・引合2割6分3毛・年貢高571石余となっている。雑税高は,慶応3年の御定役御金銭并諸御礼金銭御勘定帳(同前)によれば,金186両余・銭3,159貫余であった。雑税の種類としては,慶応3年には,御小者金・詰夫金・材木柾代・御舫金・御礼金・立木指付・薯蕷百連代・麻糸代・走夫銭・粒荏代・定番銭・筵菰代・御鷹餌鳥銭・鶏黒尾代・給所本舫があった(御領分中御定役御金銭高百石当定目/五戸録)。五戸通を統轄していた代官所の職制は,天保年間頃には代官2人・下役2人・牛馬役2人・木崎野又重野御用懸(人数不明)・御側大豆御用懸3人のほか,蔵奉行2人であった(公国史)。具体的職務を慶応3年の書上(五戸録)でみれば,海防掛・牛馬役・為御登大豆御用掛・御物書・諸御役(北地御運穀御用掛・御備米御用掛・諸木植立奉行・硝石製法御用掛・非常備穀運穀御用掛・備荒倉御運穀御用掛・西廻御用銅駄送御用掛・五戸通新田納送御用掛)があって,給人が任用されていた。また馬肝入があり,町方諸役付では硝石買入方・上町検断・下町検断・宿老・五戸村肝入・定番・目明・御蔵番があった(五戸録)。牛馬役・大豆掛は当地の特産にかかわるものである。これらが幕末期の当代官所の職制のすべてを示したものかは不明だが,代官の下に五戸給人が職務を分担し,これを町役人・村役人が支えていたことが知られる。また五戸通には大肝入も所在していた。文化~文政年間には大肝入として田中助四郎がいた(五戸町誌)。大肝入の管轄や職権については不明なことが多いが,安政3年の五戸通地震被害訴状(内史略)には五戸町方から浅水村・下市川村・百石村の御蔵入地,さらに下田村の給所地までその訴状に連署していることから,五戸通全体の村々を管轄していたように推測される。主な農産物は元禄7年の五戸御蔵の請取払勘定目録(五戸町誌)によれば,米・大豆・粟・稗などであった。米は稲作北限地としての風土的条件から生産力は低く,大豆などの畑作物や馬産が振興した。特に大豆は藩の専売品として重視され,御登せ大豆として大坂や江戸へ運ばれた。普通は野辺地から積み出されたが,時期によっては市川湊または八戸湊から積み出されることもあった。天保10年に野辺地へ集荷された大豆の石数は,五戸通では2,500石であったが(野坂家文書),同年には市川湊からも1,300石積み出されている(三浦家文書/倉石村史)。また八戸湊から積み出された例では元禄9年に422駄が送られている(諸取払勘定目録/倉石村誌)。藩営牧場としては又重野と木崎野があり,宝暦5年には又重野に86疋,木崎野に112疋が放牧されていた(奥隅馬誌)。特産物は,「邦内郷村志」によれば鮭(披・塩引)・鰯メ粕・紫紺,文政4年の南部盛岡藩御領分産物書上帳(郷土史叢3)では市川村の鮭・鱸・鱒・北寄・鰯・鰯油,諸村の紫根・蒼朮・桔梗・白朮があった。なかでも鮭は「市川の鮭」として知られ,初鮭は藩主に献上されるのが習わしであった。また大半が丘陵山地となっていることから山林業も振興した。延享4年の五戸御代官所御山帳(日本林制史資料)によれば,当通の248か山のうち,65か山が留山とされ,森林保護が図られていた。享保17年から文久4年にかけては,西越・手倉橋・豊間内・七崎・扇田・浅水の6か村では99か所に植林が行われ,杉2万2,723本・松2,400本・栗1,000本が植林されている。稲作北限地としての当地方には飢饉が頻発した。特に悲惨だったのは天明3年の飢饉で,「篤焉家訓」(盛岡市中央公民館蔵)によれば,「福岡より田名部迄,青田にて食物これ無く,人馬飢死莫大也。なかんづく五戸通もつとも猫・人馬死候を食し候者多し。哀むべし」とある。飢饉が続くと百姓一揆も激発した。五戸通の百姓一揆は寛政7年と天保5年,嘉永6年が知られている。なかでも規模が大きく,要求も強硬だったのは嘉永年間の一揆である。この一揆は三閉伊一揆に呼応して起きたもので,嘉永6年7月11日に五戸白山平に「五戸一万三千石三拾三郷百姓共家別に壱人宛」(万覚控帳/倉石村史),合計4,000人が集まった。要求は御用金の免除,別段買上大豆の中止,夫伝馬負担の軽減など17か条にわたるものであった。一揆勢は「夫々郷印を立て,諸人物云ふ事苗代時の蛙の如し」(同前)の勢いで,五戸代官所を見限り古城のある三戸代官所へ強訴した。この結果,11か条の免許を藩から獲得して一揆は成功をみた。災害のうち,安政3年7月の地震被害をみると,五戸通では代官所の建物・武器蔵・米穀蔵の壁の欠落,大豆蔵の大破,相坂村の大豆蔵の大破などのほか,五戸町中の新田通13軒,下田村の6軒,浅水村の1軒が潰れ,下市川村では津波にて子供3人・牛1疋水死,百石村では馬9疋死亡,市川浦では前浜・北浜通で納屋・網・諸道具が多数流失をみている(内史略)。寺院は五戸村に高雲寺・専念寺・浅水村に完福寺,戸来村に長泉寺,又重村に儒童寺,中市村に願福寺などがあり,神社は各村々にあってそれぞれ崇敬をうけていた。また,藩の修験の組織としては戸来村に五戸年行事の多門院が所在した。本山派に属し,当通を含めて「陸奥国南部三戸・六戸・七戸之内六拾七箇村」(貞享4年年行事職補任状/多門院文書)を支配していた。明治初年の「国誌」によれば,青森県第7大区1・2・3小区および第8大区4・5・7小区に属している。現在の三戸郡新郷村・倉石村・五戸町,上北郡十和田湖町・六戸町・下田町・百石町および八戸市・十和田市の各一部にあたる。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7010916