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猿賀神社
【さるかじんじゃ】


南津軽郡尾上町猿賀にある神社。旧県社。祭神は上毛野君田道命。江戸期までは深沙宮あるいは深沙大権現と呼ばれ,また別当寺と一体で猿賀神宮寺とも呼ばれた。縁起によれば,仁徳天皇55年に蝦夷制圧のため陸奥に赴いた上毛野君田道は,目的を達しないまま戦地で没し,南部鹿角郡猿賀野(秋田県鹿角市付近)の産士神として祀られた。その後,欽明天皇28年の洪水に際して田道の霊が白馬に乗って当地に流れ着いた。延暦14年,坂上田村麻呂が蝦夷平定に苦戦した時,夜叉形の深沙大権現に助けられたため,まだ小祀であった当社に詣でて社殿を建立したという(国誌)。社伝によれば,大同2年・治承2年・建武2年・延文4年・応永18年に武将らによって造営が行われ,文亀2年に円明坊が再建した。「永禄日記」天正2年正月条に「猿賀村之権現堂ふき替,供養」とみえる。天正14年正月には,大浦(津軽)為信が猿賀村神宮寺に参詣して,それまで猿賀・新屋・高木3村の預りであったのを為信の祈祷所とし,堂(深沙堂)および12坊を修繕した(永禄日記)。神宮寺は天台宗で,縁起によれば,阿遮羅山千坊の名残であっという。乳井毘沙門宮の別当福王寺玄蕃が一時当社の別当を兼帯していたこともある(永禄日記元亀3年5月4日条)。寺領は猿賀・新山・高木3村で5,000石を有していた(国誌)。天正15年に為信は神宮寺を破却して12坊も退転し,弘前の最勝院を別当に任じて真言宗に改宗させたが,元和5年に2代藩主津軽信枚が寺領100石を寄付して再興,天台宗に復した。承応3年に社殿・寺堂を修覆し,以後国中の大社として崇められるようになった(国誌・工藤家記)。神宮寺は猿賀山長命院と号し,子院12坊・社家4家を擁した。文政6年落雷のため焼亡したが,2年後に復旧。明治4年に,神仏分離のため猿賀神社と改称し郷社となった。のち明治13年には県社に列格した。神宮寺は破却されたが,子院のうち東光院が明治26年に神宮寺の寺号を継承して現在に至る。正月7日に行われる七日堂祭は柳がらみの行事ともいい,その年の豊凶を占うもので近隣からの参拝者でにぎわう。祭りは鬼形を矢で射る弓射の行事だが,その由緒は古い。「永禄日記」天正14年条に,坂上田村麻呂が退治した鬼の頭を当社の森に埋めた故実にならって,悪魔降伏のためにこの行事を行ったとある。菅江真澄の「外が浜風」にも同様の伝承と行事のありさまを記す。秋の例祭も岩木山・小栗山神社と並ぶ津軽三大祭として有名。境内には広大な鏡が池があり,ウおよびサギの繁殖地で国の天然記念物に指定されているが,現在はウ・サギの姿を見ることができなくなってしまった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011064