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下之切通
【しものきりどおり】


羽州街道の銀(しろがね)(浪岡町)と葛野(くずの)(藤崎町)をそれぞれ出発点とし,小泊(小泊村)に至る街道。両地点からともに北上し,持籠沢(もつこざわ)(持子沢)で合流し,飯詰(以上五所川原市)-金木(かなぎ)(金木町)-中里(中里町)-相内(あいうち)(市浦(しうら)村)を経て小泊(小泊村)へ至る。銀~原子(はらこ)(五所川原市)間は主要地方道五所川原浪岡線,原子~金木間は主要地方道五所川原金木線,金木~小泊間は国道339号,葛野~持籠沢間は県道米山菖蒲川線の路線にそれぞれほぼ相当する。街道の名称は,飯詰より北の地域を下之切と称することに由来する。延宝9年の御郡中駄賃定に名称がみえる。「慶安2年道筋帳」によれば,下十川(しもとがわ)(浪岡町)から原子を経て十三浜(市浦村)磯辺路へ出る下ノ切小道と,十三から小泊までの磯辺路があり,この両者からなる下之切通の距離は17里7町5間とある。原子で合流する藤崎からの道筋をとると距離が25長町くなる。元禄7年の御国中道程之図では,銀を起点とする距離は17里7町1間であり,葛野からの道と持籠沢で合流している。道筋の上では,飯詰をすぎると中柏木から喜良市(きらいち)を通り金木へ至るルートと,嘉瀬(かせ)(以上金木町)を通り金木へ至るルートの2つがあり,江戸後期には後者が幹線となっている(金木組絵図)。一方,薄市から北も,今泉(中里町)-太田-板割沢を通り磯松(以上市浦村)へ至るルートと,今泉-相内-磯松へ至るルートの2つがあり,江戸後期にはこれも後者が幹線となっている(相内山役人預山絵図)。承応2年の「津軽領道程帳」によれば,道幅は藤崎~原子が1間半~2間,原子~中里は2間~3間,中里~薄市・今泉~相内・脇本(市浦村脇元)~小泊はそれぞれ1間半~2間,薄市~今泉は「潟ばた故記すに及ばず」,十三~脇本は「砂浜故記すに及ばず」とある。貞享4年の「道付」には,藤崎の北部飯詰への追分付近にヤナギの並木があったことがみえ,以北も同様にヤナギ並木であった。中柏木までは比較的平坦な道であったが,北へ進むと小坂・中坂・大坂・石坂・砂路となり,通行が容易ではなく,冬季間は交通が困難であった。文久4年の御領分道程駄賃定によれば,銀~飯詰間は不明であるが,飯詰~金木間は本荷夏66文・冬86文,軽尻夏44文・冬53文,歩行夫夏33文・冬43文,飯詰~嘉瀬間は本荷夏40文・冬52文,軽尻夏27文・冬37文,歩行夫夏20文・冬26文,嘉瀬~金木間は本荷夏13文・冬17文,軽尻夏9文・冬12文,歩行夫夏6文・冬8文,金木~中里間は本荷夏63文・冬82文,軽尻夏42文・冬55文,歩行夫夏32文,冬42文,中里~相内間は本荷夏159文・冬207文,軽尻夏106文・冬138文,歩行夫夏80文・冬104文,相内~小泊間は本荷夏196文・冬255文,軽尻夏131文・冬170文,歩行夫夏98文・冬127文,藤崎~原子間は本荷夏82文・冬107文,軽尻夏55文・冬71文,歩行夫夏41文・冬53文となっている。街道沿いの村は,弘前藩3代藩主信義から4代藩主信政の時代にかけて開発された新田村が多い。また,街道沿いには中世城館や天文年間成立の津軽郡中名字にみえる地名もあり,中世から下之切通に先立つ道筋があったものと思われる。梵珠山地と屏風山砂丘地の間にある平野部の岩木川と山田川などの流域に開かれた新田村から産出した米は,当街道や十三街道,さらに岩木川水運によって運搬された。一方,この街道は江戸幕府巡見使の通行路となっている。「津軽歴代記類」によれば,寛永10年小泊から松前へ渡海,寛文7年には浪岡-金木-十三を経由して小泊へ宿泊した後,松前へ渡海している。「平山日記」には,天和元年の巡見使が通ったと記載されている。幕末には異国船の出没に備えて,小泊に台場が設けられ,藩主の巡見が行われていた。現在は金木以北のほかは,要路としての機能がなくなりつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011241