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神明宮
【しんめいぐう】


八戸市廿六日町にある神社。旧村社。祭神は天照皇太御神。他に豊受命・誉田別命・天児屋根命を合祀する。伝承によればもと金浜村(八戸市)に創建されたが,新井田村,中居林村(ともに八戸市)と移転した後,寛文9年八戸藩によって長者山の北東隅に正殿拝殿鳥居等が建立され遷座した。「八戸藩日記」同年10月16日条に「御伊勢堂御建立奉行」に欠端半左エ門が任命された記事があり(八戸市史),当時は御伊勢堂と称していた。長者山周辺には藩主の菩提寺南宗寺をはじめ多くの寺社が集まっており,これは八戸城の南の守りとして集められたものといわれるから,当社の長者山移転も藩の寺社政策の一環と考えられる。しかし宝永6年3月に「長者山ハ高山ニ而場所悪鋪」ことを理由に現在地への遷座が許可された(八戸藩日記/八戸市史)。これは別当浄法院の願出によるという(八戸藩史料)。なお旧地にはのちに牛頭天王を祀る天王堂が造営されたが,明治維新後長者山新羅神社に合祀されている。以後社名も神明と呼ばれるようになった。藩の重要な祈願所の1つで,藩命によりしばしば雨乞・日和乞・風神祭の祈祷を行い,寛政2年2月には他の5寺社とともに毎年正月中国家安全・五穀豊穣・漁乞の祈祷を行うよう命じられ,その際20貫文の祈祷料が供えられている(八戸藩日記)。また同6年7月には名久井通・長苗代(ながなわしろ)通・八戸廻の百姓の祈願で法霊社(現龗神社,八戸市内丸2丁目)とともに雨乞祈祷も行っている(八戸藩御勘定所日記/八戸市史)。「八戸藩日記」宝永5年2月1日条によれば社殿は伊勢神宮と同様に21年目ごとの建て替えを原則とする。江戸期では享保14年・寛延2年などの式年遷宮が知られる(八戸藩日記)。享保14年9月の遷宮の際は地元の社人6人・神子1人のほか,盛岡から12人の社人が来て,計19人で神事を勤めており(同前),この時修験から神道に改められ,御供料玄米10石の永代寄進を受けた(八戸藩史料)。しかし当社は町並みの中にあるためしばしば火災の厄に遭い,享保10年,文政12年,元治元年に焼失している(八戸藩日記)。「多志南美草」の慶応2年10月16日条に「神明様御遷宮有之事。是は類焼後,漸の次第にて,御普請も御成就に相成との義也」とあり,現社殿はこの時再建されたもの。元文2年9月16日の祭礼が当社祭礼の始まりで,この時から根城村内で20石の社領を給された(八戸藩史料)。宝暦5年の堂林寺門間数改書上帳には「廿三日町神明御堂 右之神主中居伊勢守より書上可申候」とあり(常泉院文書/八戸市史),当時はまだ廿三日町域に属していた。なおこの中居伊勢守は八戸に住んでいた思想家安藤昌益の弟子の1人で,宝暦8年2月には社家仮支配頭となっている(八戸藩日記)。嘉永7年の御家中分限并本座列帳に「一〈社料〉弐拾石金弐両 〈神明大宮司〉中居但馬 〈則弐両文政十亥年閏六月八日御寄附〉 〈外御蔵米五駄御供料〉」と見える(八戸市立図書館蔵)。明治維新後村社に列格。境内には樹齢600年以上という大イチョウがあり,当社の移転以前にも何らかの堂祠があったことを暗示している。現在の例祭日は10月16日だが,6月30日~7月1日に名越しの祭も行われ,当日は茅輪くぐりの参詣人でにぎわう。享保6年に開始された法霊社から長者山三社堂(現長者山新羅神社)への神輿渡御は,明治22年当社が参加してから八戸三社大祭と呼ばれるようになり,現在は8月1日から3日間行われる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011418