100辞書・辞典一括検索

JLogos

11

大行院
【だいぎょういん】


弘前市西茂森町1丁目にあった修験寺院。当院跡には天満宮が立つ。松峰山長永寺と号し,京都の醍醐寺三宝院を本山とする当山派修験に属す。松峰山長永寺の号は寛文7年に三宝院からたまわったもの。元禄15年当院4世長慶著の堂社縁起修験道由緒によると,慶長17年に近江国甲賀郡の飯道寺岩本院(滋賀県水口町)の修験大行院永尊が開創したという。はじめ鼻和荘八幡郷にあった。正保元年3代藩主津軽信義から修験司頭に任じられ,寺領30石を付与された。翌2年から毎年3月7日に藩主の子孫繁栄,国家安泰のための祈祷を領内の修験を集めて行ったという。その後,4代藩主信政から大峰派・羽黒派の両司頭に任じられ領内ほとんどの修験を統轄することになった。正徳元年寺社領分限帳では当院支配の修験は110人(うち大峰派98,羽黒派12)。大峰派には乳井神社別当の福王寺(現廃寺,弘前市),湯口村薬師堂別当の教円寺(中津軽郡相馬村の石戸神社)など,羽黒派には弘前城下銅屋町の宝寿院,和徳村の常宝院(以上現廃寺,弘前市)などがあった。承応2年弘前城下の報恩寺の隣,現在の県立弘前高校付近に移転(常社縁起修験道由緒・弘前市史)。後,報恩寺修造のため常源寺坂の所屋敷(弘前市西茂森町1丁目の天満宮の地)に移った(平山日記)。藩主の保護を受け繁栄したが,天明の飢饉で寺領30石余が廃田となりしだいに衰退。天明6年に改めて寺領12石が給されたというが(正徳元年寺社領分限帳貼紙),文化10年・文政11年と富籤興業が行われており,寺領のみでの経営維持が困難になっていたと思われる。明治維新時の神仏分離で,10世光海は修験をやめ神官となり,橋雲寺(中津軽郡岩木町)から天満宮を移祀した。天満宮の祭神は菅原道真。例祭(6月25日)の宵宮は市内有数のにぎわいをみせる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011520