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大祐神社
【だいすけじんじゃ】


八戸市湊町にある神社。旧村社。祭神は豊受姫命。古くは大祐明神,大祐堂などと称した。新井田川河口近くの高台南斜面に位置し,すぐ下の河岸には藩政期漁獲(主にイワシ)高の10分の1を税として取り立てる十分一役所が置かれていた。八戸祠佐嘉志写(八戸市立図書館蔵)によれば,祭神は工藤祐経の子犬房丸,本尊は弁財天だった。工藤犬房丸祐長は当地に下向して奥瀬氏の娘を娶り2人の男子をもうけたが,長子は南部政行の養子となり,次子は工藤大祐と称して1社を建てて弁財天を祀った。社名はこの大祐にちなむもので,別当は代々その子孫が勤めてきたという。寛文5年の無量院御立願状に「一,〈湊ノ〉猟ノ神 鮒之絵納ル事」とあるのが当社のことと思われる(常泉院文書/八戸市史)。寛政2年2月から八戸藩では,領内の6寺社に命じて正月中国家安全・五穀豊穣・漁乞の祈祷を行わせているが,当社はその中の1つで,その際1か所につき20貫文の祈祷料が供えられた(八戸藩日記/八戸市史)。漁乞の神として漁民の信仰が篤く,漁乞・風鎮祭の祈祷がしばしば行われた。文政5年8月常泉院に命じて執行した漁乞祈祷では2夜3日神楽3座があり,祈祷料として金2両玄米片馬,神楽料として3貫文他入用の諸色を藩が支出している(同前)。宝暦5年の常林寺門間数改書上帳には「一同村(湊村)大祐堂林間数 林 東西弐拾壱間南北五拾四間 堂 三間半二三間 寛文三卯年十一月建立施主加賀式部」とあり,福寿院が別当を務めていた(常泉院文書/八戸市史)。堂宇の造成,屋根の葺替えには藩がかかわっており,「八戸藩勘定所日記」元禄6年2月8日条い柾4,000枚の貸与,天明元年4月7日条に萱300駄交付,嘉永5年7月17日条には萱200駄交付と八戸廻での勧化願が許可されている(八戸市史)。祭礼は宝永年間までは8月19・20日であったが,享保年間頃から8月3日に行われ,嘉永元年の祭礼から神輿を川舟にのせ,当社から新井田川上流1kmの諏訪明神まで通輿が行われるようになり(八戸藩史料),これが現在の八戸みなと祭りの端緒となった。明治維新の神仏分離で弁財天を他に移し,現社名を称した。明治維新以後村社に列格。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011542