垂柳
【たれやなぎ】

旧国名:陸奥
平川に合流する浅瀬石川の左岸氾濫原上に位置する。現在,北部に果樹園があるが,その他は水田である。集落南東には弥生時代の垂柳遺跡があり,擦切石斧・打製石鏃や壺・甕・鉢・高坏・蓋・台付鉢などの土器のほか焼米200粒が出土した。なお土器は田舎館式土器と呼ばれ,籾の圧痕を有するものがある。この遺跡は2~3世紀に稲作が行われていたことを示し,古代日本における稲作北限の地としての意味をもっており,水田跡の総数294枚,2,211m(^2)余が確認され,足跡・畦畔・大畔・水路も発見された。「津軽一統志」では,天正13年浅瀬石(黒石市)城主千徳大和は,津軽討伐に差し遣わされた南部氏の家臣長?日向の大軍を退けた功により,恩賞の一部として大浦(津軽)為信から当地を与えられたという。「津軽一統志」には天正13年の戦いのおり,南部軍を溝のなかに引き入れ,また阿弥陀屋敷と城との間の大堰に架かる橋を落としたという記述があり,要害の1つとして垂柳館と関わるものと思われる。
【垂柳(中世)】 戦国期に見える地名。
【垂柳村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【垂柳(近代)】 明治22年~現在の田舎館村の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011719 |





