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斗賀神社
【とがじんじゃ】


三戸郡名川町斗賀にある神社。旧村社。祭神は伊邪那美尊・月読命・猿田彦命。明治期の神仏分離で現社名に改称したが,改称以前は霊現山新禅寺(新源寺,東禅寺とも)と称し,霊現観音(涼現,了現とも)あるいは斗賀観音などと呼ばれた。現在でも霊現堂の呼称が一般に広く用いられている。国道104号の西側に丘陵を背にして鎮座する。社殿後方の丘陵の中腹に御手洗といわれる泉池があり,竜神宮が祀られ,十和田山として信仰されている。大蛇八郎太郎を折伏して十和田湖の開祖となった南蔵(祖)坊は,当霊現堂で生まれ,この泉の水を産湯として用いたと伝えられている。この南蔵坊伝説の書かれている「十和田記」「十和田山神教記」などでは,南蔵坊出生の祈願所を斗賀の観音堂,あるいは両現堂観音としている。社蔵の霊現堂縁起などによると,宝亀年間因幡守平秋朝の讒言によって流罪となった太政大臣藤原有家が斗賀村で死んだので,坂上田村麻呂がそこに堂宇を建てて霊現山新禅寺と称し,十一面観音を祀ったのが始まりという。「国誌」は正平年間の建立という。また「地名辞書」は,霊現堂は北斗妙見菩薩を祀り,南部家の「双鶴に九星」の家紋は星辰の霊験に帰依したためとする。「正平廿一年三月三日大旦那大信明尊」の銘を持つ鰐口を所蔵しており,開創はそれ以前と考えられる。また年号が南朝年号であることから南朝勢力によって開創され,根城南部氏の庇護を受けていたと思われる。銘文中の「明尊」は恵光院(南部町大向に所在,通称長谷寺)開山の長慶天皇弟明尊のことであると伝えられている。古くから疱瘡治癒の神として近郷近在のみならず遠く盛岡藩からも重用され,承応2年4月には「斗賀れうげん」「斗賀了源観音」が藩主病気につき祈祷を命じられ,初尾として米20俵が供えられている。宝永4年11月28日にも藩主の疱瘡平癒の祈祷を命じられている(雑書)。また「八戸藩史料」寛文9年4月晦日条では,小田毘沙門(現八幡宮,八戸市河原木)・苫米地三岳(現御岳神社,三戸郡福地村)とともに「斗賀霊現」も領内3か所の祈祷所の1つとなっている。そのほか享保5年9月,天明8年7月には巡見使無事通過の祈祷が,享保9年8月には姫の眼病平癒の祈祷が,また享保15年4月には亀之助の疱瘡全快の祈祷がそれぞれ命じられており(八戸藩日記),藩の重要な祈祷所の1つだった。当初は天台宗寺院だったと考えられるが八戸藩領時代には真言宗に属し,寛保4年の諸寺院寺号山号帳(八戸市図書館蔵)には「一拾石〈豊山寺支配斗賀村〉〈霊現山〉新源寺」とあり,高10石を給されている。また寛保3年の「奥州南部糠部順礼次第全」によると,「涼現堂十一面観音」は糠部三十三観音第16番札所という。「八戸藩日記」延宝7年3月23日条によると,斗賀冷現堂の普請に当たりゆきたれ20枚・わらなわ1,000尋・くくなわ1,000尋を遣わし,11月18日の遷宮には代参を下向させている。普請は全額藩負担だったらしく,「糠部五郡小史」には「延宝七年十一月中旬大旦那三十代綱吉公大守遠江守直政公再興造立」とある。正徳9年3月の遷宮に当っても,藩公は赤白もめん2双ほか諸品を遣わし,永久寺(廃寺,八戸市山伏小路)を代参させている(八戸藩日記)。本殿内部は大仏様と禅宗様の建築様式で,須弥壇上の厨子は内御堂と呼ばれ,室町期の作といわれている。鎌倉初期の毘沙門天・不動明王などの木像のほか,舞楽面3枚もある。また等身大の阿弥陀如来像はいつの頃からか霊現堂の本尊として崇拝されるようになったが,伝承では本尊十一面観音像はこの阿弥陀如来像の胎内にあるといわれる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7011923