斗南藩
【となみはん】

(近代)明治2~4年の藩名。陸奥国北郡斗南町(田名部町)に居を置き,北・三戸・二戸3群のうちを領有した家門小藩。会津藩主(23万石)松平容保は文久2年京都守護職に任命され,幕末の多難な政局を左幕派の重鎮として活躍した。しかし,戊辰戦争では新政府軍に徹底抗戦したため,会津藩は朝敵の汚名を着せられ,慶応4年9月会津城包囲のなかで降伏を余儀なくされた。藩主容保は所領をすべて没収され禁錮の刑に処せられて鳥取藩預けとなった。明治2年11月3日容保は赦免となり,家名再興が許され,嗣子容大が旧盛岡藩領(三戸県)だった陸奥国北郡・三戸郡・二戸郡で3万石を与えられ,斗南藩が成立した。所領は明治3年三戸県から引き渡されるが,その領域は明瞭ではなく史料によって変動が見られる藩成立時の村数・村名についての史料は伝えられておらず,明治4年青森県成立時の引渡し村数は二戸郡内12か村・草高3,969石余,三戸郡内50か村・草高2万2,048石余,北郡内46か村・草高8,729石余,合計112か村(108の誤りか)・草高3万4,747石余という(青森県歴史/県史8)。「岩手県史」では,二戸郡内三戸通32か村,北郡内野辺地通12か村・田名部通36か村,三戸・北両郡内五戸通19か村の計115か村とするが,二戸郡内の村数について別の所では12か村あるいは8か村かとしていて統一されていない。「斗南藩史」は,明治3年における斗南藩領について「斗南藩行政区画」(新釈青森県史中編)から引いて,二戸郡内9か村(斗米・金田一など),三戸郡内26か村(市川・関・茂市・石亀・田子(たつこ)・原・斗内・三戸・目時・大向・相内・八幡・豊間内・大〈七か〉崎・野沢・浅水・手倉橋・西越・貝森・戸来(へらい)・又重・中市・石沢・五戸・兎内・相室内〈切屋内か〉),北郡内27か村(高屋敷・大坂・伝法寺・米田・滝沢・大不動・奥瀬・鳥谷部・板橋・野辺地・馬門・横浜・中野沢・奥内・田名部(たなぶ)・田屋・目名・砂子又・蒲野沢・川内・安渡・脇野沢・奥戸(おこつべ)・大間・大畑・足沢・本田)の計62か村としている。「近代化のなかの青森県」は,「県租税誌」と「十和田市史」を手がかりとして,二戸郡内9か村(足沢・本田・斗米・野々上・釜沢・金田一・米沢・石切所および堀野村の内),三戸郡内26か村(前記の村名と同じ),北郡内35か村(高屋敷・相坂・伝法寺・米田・滝沢・大不動・奥瀬・鳥屋部・板橋・野辺地・馬門・横浜・中野沢・奥内・田名部・田屋・目名・砂子又・蒲ノ沢・安渡・城ケ沢・川内・晒ノ沢・奥戸・大間・大畑・河代・志利屋・志利労・猿ケ森・白糠・佐井・牛滝・長後および沢田村の内)の計70か村を記している。「旧高旧領」では,二戸郡内16か村(釜沢・金田一・矢沢・野々上・海上・根森・金田一川向・前沢・石切所・下斗米・本田・田中館・足沢・上斗米・外山・堀野),三戸郡内67か村(五戸・兎内・大森・切谷内・上市川・石沢・下市川・中市・又重・戸来・西越・手倉橋・浅水・扇田・野沢・豊間内・志戸岸・七崎・八幡・相内・玉掛・沖田面・大向・赤石・小向・蛇沼・袴田・貝守・川守田・泉山・梅内・目時・豊川・斗南・田子・相米・種子・白沢・白坂・原・飯豊・佐羽内・道地・石亀・杉本・茂市・遠瀬・山口・関・夏坂・河原木・石堂・大仏・根市・花崎・境沢・長苗代・上野・根岸・売市(うるいち)・沢里・根城・田面木・坂牛・櫛引・尻内・浜通),北郡内48か村(野辺地・有戸・馬門・法量・奥瀬・大不動・滝沢・米田・藤島・伝法寺・田名部・大湊・田屋・砂子又・奥内・中野沢・横浜・大利・目名・蒲野沢・野牛・岩屋・尻屋・猿ケ森・尻労(しつかり)・小田野沢・白糠・関根・正津川・大畑・下風呂・易国間(いこくま)・蛇浦・大間・奥戸・佐井・長後・城ケ沢・川内・檜川・宿野部・蛎崎・小沢・脇野沢・天間館・野崎・中岫(なかぐき)および沢田村の内)の計131か村と記載。これらの差異は,村数の把握の違いによるものと思われるが,概括的にいえば,三戸郡では八戸藩領を除いた村々,北郡では七戸藩領を除いた村々,これに二戸郡北部の一部を加えた村々が斗南藩領であった。藩名について「松平家譜」には記載がないが,「地名辞書」には斗南は北斗以南皆帝州の語義で北遷の新藩として命名したとある。会津藩は本州北陬(ほくすう)の地に遷せられても,天皇の領知から追放されたわけではないとの気概が込められているとみられる。藩庁は,明治3年旧五戸代官所に設けられたが,同4年旧田名部代官所に移され,藩主の仮館は円通寺に指定された。この頃から田名部町は斗南町とも称するようになる。明治3年三戸県から正式に所領の引渡しを受け,松平容大が斗南藩知事に任命された。藩士の移住は,明治3年5月からはじまったが,その多くは海路を経て安渡湊・野辺地湊などに上陸し,五戸・田名部に至った。移住者は約2,800戸にのぼり,田名部では妙見平に屋敷割りが行われ,約200~300戸が定住したが,そのほかは集団をなして各村に土着した。移住に際して会津の土津(はにつ)神社(福島県猪苗代町)のご神体を遷座し,また孔子像と日新館文庫を田名部に移した。文庫は,はじめ田名部横迎町大黒屋立花左衛門方を仮学問所として設けられたが,のち円通寺に移転した。藩政は,権大参事山川浩・少参事広沢安任・同永岡久茂が幼君容大を補佐し,士族授産のための方策が展開された。藩士の大部分は荒地開墾に従事することで生計を立てようとしたが,藩は鉄工業・手工業などの奨励を行い,また大湊港を拠点とする貿易の振興を図ったりした。しかし,多くの藩士たちは粒々辛苦の道をたどり,失意のうちに明治4年廃藩置県を迎える。同年7月の領内の戸数1万5,240・人口7万5,467(岩手県史)。同年7月14日廃藩置県により斗南県となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7011967 |





