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十和田神社
【とわだじんじゃ】


上北郡十和田湖町奥瀬にある神社。祭神は日本武尊。古くは青竜大権現と称した。十和田湖の南部から湖面に突き出す中山半島の付け根に所在する。十和田湖には,熊野三山で修行した南部斗賀村(三戸郡名川町)の南蔵坊(南祖坊)が,湖の主八郎太郎を秋田八郎潟へ追い出して新しく湖の主になったという伝説があり,大同2年南蔵坊が創祀したと伝える。この伝説に関する「十和田山本地記録」「十和田神教実秘録」などの写本が当地方の旧家に所蔵され,また各地に八郎太郎・南蔵坊にまつわる地名・伝承が残っている。しかし,これらを史実とするには疑問が多い。別に坂上田村麻呂が創祀したとも伝える(国誌)。当初は,山中にある湖水を水分神として自然発生的に崇拝されていただろうし,湖畔に白山社の祠があるのは,11世紀頃当地にも白山信仰が浸透していることを物語っている。陸奥国に天台宗熊野修験の布教が行われるようになるのは,延暦21年坂上田村麻呂とともに陸奥国へ下った天台宗修行法師光暁とその2人の弟子によってといわれる。その後当地でも熊野修験が勢力を増してきたのは事実で,修験者の修業場としての十和田湖をめぐって,天台宗修験者と真言宗修験者との宗門上の争いがあったことが,南蔵坊と八郎太郎の争いに仮託して伝承されたものであろう。その際南蔵坊を青竜権現と神格化したのは,奈良末期の吉野竜門寺の竜信仰と熊野信仰が習合して,底深い十和田湖の主神である青竜権現の出現となったものである。この伝承はすでに天文年間の津軽郡中名字に見えている。青森市油川の熊野宮に永禄2年の再興のことを記した寛文6年の棟札があり,その裏書には「熊野山十二所大権現勧請十彎寺南蔵坊時勧進小幡東覚坊」と記される。この十彎寺は当社の神宮寺と考えられ,当社および十和田湖が古くから熊野信仰と結び付き,十和田湖の青竜権現に対する十和田信仰の中心的役割を果たしていたことを示している。初めの頃の別当は不明だが,延宝9年再興した当社に祭文を読み,鎮座の本願を表現したのは別当折田左馬ノ尉だった(沼岡直次郎家文書)。宝暦年間頃の御領分社堂には「奥瀬村 十和田山青竜大権現 俗別当折田直右衛門」とある。江戸期には五戸代官所の「一ノ宮」としての社格を与えられ,例祭には代官が参加した(南部雑記)。そのため元禄6年には森ノ越(十和田市)から月日山を経由して子ノ口へ出て,湖西岸の休屋へと続く十和田参道を,元禄6年五戸代官木村又助が改修している。その時の石碑が今も子ノ口に残っている。祭礼は5月15日で,神主はそれが終わると奥瀬村に帰り農耕に従事した。そして秋の収穫後,修験者の「十和田籠り」と同時に当社に入り,祭祀に当たるとともに修験者の籠場である長床の管理にあたった。そこで,修験者のような霞場は特にもたなかった(北郡修験道史の研究)。文化4年菅江真澄は十和田湖に足をふみいれ,休屋には夏になると多くの参詣者が来泊し,精進のための建物があることをその著書「十曲湖」に記している。しかし女性は奥瀬百目木(どめき)の熊野神社までしか参詣が許されていなかったので,各地に遥拝所が造られている。奥瀬織田氏の宅地内に遥拝所があるが,これは北郡三十三観音巡りの3番札所とされていた(見町観音堂奉納額)。「竜神様」と称して,今なお雪深い中でも参拝をかかさない例もある(十和田市洞内字池ノ堂)。明治6年廃社となり一時付近の新羅神社(十和田湖町奥瀬)に祀られたが,同8年日本武尊を祭神とする十和田神社として復社した。旧暦5月14日のおこもりと翌15日の祈年大祭が祭日で,「国誌」には,「男女群をなし,二十人或は三十人相連れ登山す。多きときは四百余に至り……参詣は田殖過きを多とす」と記される。社殿裏から湖面に下ると散供打ちの占い場があり,米銭を包んだ紙を湖面に投げ,その浮沈の状況で豊凶や身の幸不幸を判断するという習俗がある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012035