100辞書・辞典一括検索

JLogos

17

西浜街道
【にしはまかいどう】


弘前と秋田藩領八森(秋田県)を結ぶ街道。弘前から鰺ケ沢(あじがさわ)―深浦―岩崎―大間越(岩崎村)を通り八森に至る。道筋は時代により変化があったが,深浦から岩崎へは日本海沿岸を通る道ではなく,中山峠を通る道が本筋であった。風合瀬(かそせ)(深浦町)付近でも日本海沿岸を通るものと,海岸段丘上を越えていくものと2筋あった。弘前~鰺ケ沢間は主要地方道弘前鰺ケ沢線,鰺ケ沢~八森間は国道101号の路線にほぼ相当する。当街道は寛永末年頃の作成と思われる幕府撰慶長日本図にも記されている。街道名の由来は,鰺ケ沢―深浦―岩崎―大間越を西浜と呼ぶことにちなむものと思われ,弘化3年の「村日記」「郷村行程古跡記」に「西ノ浜道」「西之浜通」の名称がみえる。弘前~鰺ケ沢間は特に鰺ケ沢街道と呼ばれた。「慶安2年道筋帳」には,大道筋としてこの街道が弘前・秋田両藩の藩境から弘前へ向かって記され,境之明神堂―大間越―岩崎(以上岩崎村)―深浦―追良瀬(おいらせ)―金井ケ沢(以上深浦町)―赤石―鰺ケ沢(以上鰺ケ沢町)―十腰内(とこしない)―高杉(以上弘前市)―弘前居城までの距離を23里35町とし,元禄7年の御国中道程之図では,大手町境御門から大間越御境までの距離を26里5町30間としている。両者とも深浦~岩崎間は中山峠越え,風合瀬付近では海岸段丘上のルートを通っている。また「慶安2年道筋帳」では,深浦~岩崎間の海岸沿いの道は小道で,岩崎から沢辺(岩崎村)―月屋(深浦町)―深浦までの距離は3里とある。元禄7年の御国中道程之図では,この間の距離を3里26町8間としている。承応2年の「津軽領道程帳」によれば,道幅は弘前~建石(鰺ケ沢町)が4間,建石~舞戸が3~4間,舞戸~金井ケ沢は砂浜のため記さず,金井ケ沢~田野沢(深浦町)が2間の所もあるが砂浜のため記さず,田野沢~追良瀬が2~2間半の所もあるが砂浜のため記さず,追良瀬~深浦が2~3間の所もあるが砂浜のため記さず,深浦~岩崎が1~2間,岩崎~大間越が砂浜のため記さず,大間越~境之明神堂が1~1間半とある。西浜街道の日本海沿岸部は海岸段丘上と波打際を上下するため坂が多く,天明元年の藩律によれば,領内の大坂40のうち15がこの街道にあった。主なものに木連師坂・大間越坂・森山坂・岩崎坂・めくら坂・阿妻居坂・雪屋崎坂・追良瀬坂・驫木(とどろき)坂などがあり,冬季間の通行は容易でなかった。主な河川としては,岩木川・浮田川(鳴沢川)・中村川・赤石川・追良瀬川・吾妻川・笹内川・津梅川があった。このうち岩木川・浮田川・中村川には橋があり,赤石川と追良瀬川には渡し船があった。文久4年の御領分中道程駄賃定によれば,弘前~高杉間は本荷夏51文・冬66文,軽尻夏34文・冬44文,歩行夫夏26文・冬34文,高杉~十腰内間は本荷夏13□文・冬179文,軽尻夏92文・冬12□文,歩行夫夏69文・冬90文,十腰内~浮田間は本荷夏55文・冬71文,軽尻夏36文・冬47文,歩行夫夏27文・冬35文,浮田~鰺ケ沢間は本荷夏35文・冬45文,軽尻夏24文・冬31文,歩行夫夏18文・冬23文,鰺ケ沢~赤石間は本荷夏30文・冬39文,軽尻夏20文・冬26文,歩行夫夏15文・冬19文,赤石~関間は本荷夏38文・冬49文,軽尻夏26文・冬34文,歩行夫夏19文・冬25文,関~金井ケ沢間は本荷夏6文・冬8文,軽尻夏4文・冬5文,歩行夫夏3文・冬4文,金井ケ沢~風合瀬間は本荷夏77文・冬92文,軽尻夏48文・冬62文,歩行夫夏36文・冬47文,風合瀬~驫木間は本荷夏45文・冬58文,軽尻夏30文・冬39文,歩行夫夏22文・冬29文,驫木~追良瀬間は本荷夏23文・冬30文,軽尻夏15文・冬19文,歩行夫夏11文・冬14文,追良瀬~広戸間は本荷夏21文・冬27文,軽尻夏14文・冬18文,歩行夫夏11文・冬14文,広戸~深浦間は本荷夏30文・冬39文,軽尻夏20文・冬26文,歩行夫夏15文・冬19文,深浦~岩崎間は本荷夏119文・冬155文,軽尻夏79文・冬103文,歩行夫夏59文・冬77文,岩崎~松神間は本荷夏50文・冬65文,軽尻夏33文・冬43文,歩行夫夏25文・冬32文,松神~黒崎間は本荷物夏16文・冬21文・軽尻夏10文・冬13文,歩行夫夏8文・冬10文,黒崎~大間越間は本荷夏22文・冬29文,軽尻夏14文・冬18文,歩行夫夏11文・冬14文,大間越~八森間は本荷夏225文・冬292文,軽尻夏150文・冬195文,歩行夫夏113文・冬147文であった。西浜街道沿いの村には,天文年間成立の津軽郡中名字に地名のみえるものもあり,板碑や中世城館の存在などから,中世にこの街道に先立つ道筋があったと推定される。文禄年間と思われる豊臣秀吉の朱印状には,弘前藩祖為信の鷹献上について「秋田分領八森 のしろ ふすへ沢」(津軽家文書)のようにルートが指定されており,西浜街道を使用した。江戸期には大間越に関所が置かれ,弘前藩はこの街道を参勤交代に利用し,4代藩主信政が寛文5年に羽州街道を通行するまで続いた。また,松前藩もこの街道を参勤交代路として使用しており,小泊(小泊村)に上陸した一行は,日本海沿岸を南下し,鰺ケ沢から当街道に入った。しかし,同藩も寛文6年頃から奥州街道を通行するようになる。3代将軍家光の時に派遣された幕府巡見使も寛永10年に当街道を通行した。寛文5年以降参勤交代路でなくなり,次第に幹線路としての機能は薄れたが,弘前~鰺ケ沢間は物資の輸送路として重視された。江戸後期から幕末にかけては,異国船の出没に伴い,当街道の日本海沿岸にも台場が設置され,藩主の巡見がしばしば行われた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012244