100辞書・辞典一括検索

JLogos

16

乳井神社
【にゅういじんじゃ】


弘前市乳井にある神社。旧郷社。祭神は武甕槌命・経津主命。天手力男命。江戸期までは毘沙門天を祀る堂で,別当として修験の嘉承山福王寺があった。社伝によれば延暦年間坂上田村麻呂の悪鬼征伐の時,南蔵坊という者がこの地に毘沙門天を祀ったのに始まる。承暦2年に南蔵坊の後裔であった修験者福王寺養寛が甲斐国から来て,毘沙門天と戸隠大権現を祀って中興したという。南蔵坊は,十和田湖を開いたことで知られつ南祖坊(南宗坊)のことで,十和田湖が熊野信仰の拠点であったことを思うと,福王寺も熊野系修験であった可能性が強い。「津軽一統志」には承暦2年8月3日「東夷為調伏,勅而草創」したとある。貞応2年12月5日付僧栄秀寄進状,同年月日僧栄秀譲状に,「津軽平賀郡乳井郷内福王寺并極楽寺」と見え,栄秀は福王寺と極楽寺の敷地四至を定めると同時にこれを両寺に永代寄進し,新たに信濃公長秀を別当として住房・僧房・在家・田畠・漆山・外沢の山林・荒野部室形の山手炭などを譲った(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。長秀は栄秀の子息であり(奥州新渡戸文書/鎌遺3510),福王寺と極楽寺を含んだ広大な四至はそのまま栄秀の所領であった。泰時下文に「有限之免田九丁八反者〈新免八反〉」とあり,これが毘沙門堂別当福王寺と阿弥陀堂別当極楽時の寺領であった。ちなみに栄秀の一族は乳井郷の士豪小川氏と考えられる。延応元年12月22日付僧長秀跡相続裁決状には,小川次郎入道西念を筆頭として,長秀急死後の相続問題を解決しているが,長秀遺領としては「御たう二う てらた九丁八反」とある。御堂2宇は毘沙門堂と阿弥陀堂,寺田9町8反は福王寺と極楽時の寺領である。しかしこの時長秀には子息3人・女子1人がおり,毘沙門堂と阿弥陀堂は分割相続され,寺領も二分された(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。建武2年2月12日の北畠顕家下文によれば,福王寺別当職および寺田は千田左衛門次郎入道上覚が弘安10年以来領掌し,その子権大僧都頼基が相続したとあるから(榊原家文書/大日料6‐2),弘安年間頃直接的には小川氏の手から離れたらしい。弘安10年12月12日の北条貞時下文に見えるように,極楽寺は小川氏が相続している(新渡戸文書/岩手県中世文書上)。その後の福王寺・毘沙門天堂については未詳な点が多いが,「津軽一統志」によれば康永2年4月18日に堂を焼亡し,その灰は天狗平に埋められてこれを毘沙門塚と呼んだとある。また本尊は塚の石上に安置したという。康永4年9月日の信乃房寄進状があり(新渡戸文書/岩手県中世文書上),それには「乳井寺日行別当信乃房季源」が福王寺四天王に対して田在家を寄進しているのが見える。天文年間といわれる津軽郡中名字には「乳井〈嘉承山福王寺〉」が記されている。津軽氏に従った乳井建清の父は福王寺玄蕃と称する修験であったといわれ,玄蕃は一時猿賀山深沙大権現(現猿賀神社,南津軽郡尾上町)の別当も兼ねていた(津軽一統志)。「永禄日記」元亀3年5月4日条に「乳井之福王寺は毘沙門之別当にて天台妻帯にて坊主山伏之城持也。此宮昔は大社にて有之猿賀権現迄兼持候」とある。江戸期になると,慶安3年に奇瑞があり,承応3年には3代藩主津軽信義が祠堂を再興。明暦元年には供料4石を寄進され,享保3年には5代藩主津軽信寿が境内の戸隠宮とともに再興したという(津軽一統志)。正徳元年の寺社領分限帳では「乳井村嘉承山福王寺大福院」は大行院(現廃寺,弘前市西茂森町の天満宮がその後身)の配下になっている。明治4年寺内の仏教色を取り払い乳井神社と改称,明治6年郷社に列した。境内には正安3年を最古として南北朝期におよぶ板碑21基があり,小川氏ゆかりのものとして注目されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012271