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禰宜町
【ねぎまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は弘前を冠称。江戸期は弘前城下の1町。城郭の東北に位置し,南は田茂木町,東は田町,西は小人町と若党町に続き,北は大久保堰を挟んで和徳村に接する。町名の由来は,神官が居住したことにちなむ。城下町成立と同時に町割りが行われ,寛永末年頃の津軽弘前城之絵図に,禰宜町として家数27があり,八幡宮の禰宜・社人の屋敷が並んでいる。慶安2年の弘前古御絵図には,禰宜15・最勝院(八幡宮の別当寺院)下屋敷7・町屋2・空地1の屋敷割りがある。元禄11年の弘前惣御絵図には町の両側に最勝院構之内7軒とあり,計14の屋敷割りがある。寛政12年の分間弘前大絵図には長利豊前・同薩摩など禰宜14家の屋敷と,西の小人町から町屋28軒が連なって八幡宮への参詣道として門前町を形成していた。当町の東端南側に制札場があった。また制札場の向かいに白山宮があったが,後に八幡宮の相殿となった。当町東南には山王神社(現大杵根神社)がつくられたが,同社は田茂木町の成立とともに同町へ所属替えとなった(津軽歴代記類)。明治初年の「国誌」によれば,戸数61,町域は「上は田茂木町より下は町末に至る,屈曲して長三十六間五尺」とあり,「今も旧神官多く住す」と見える。明治22年弘前市に所属。以後住宅街としては江戸期とほとんど変化がなく,旧禰宜の屋敷も近代的な住宅に建て替えられ,サワラ垣や黒板塀を若干残すのみで昔日の面影はない。八幡宮へも北横町からの参道が発達して門前町としての性格も失われた。一部が昭和53年田町2丁目となる。昭和3年の賦課戸数26。世帯数・人口は,同25年49・236,同50年101・320,同55年106・337。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012306