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八戸廻
【はちのへまわり】


旧国名:陸奥

(近世)江戸期の八戸藩の通名。同藩の郷村支配のための地方行政区域の1つ。三戸郡・九戸郡のうち。八戸通という場合もあり,当初は浜通とも称することがあった。新井田(にいだ)川下流域の低平地と台地上に位置する。南方には階上(はしかみ)山地が広がる。江戸初期は盛岡藩領で八戸代官によって支配されていた。「雑書」承応元年10月4日条に「八戸山根通」「八戸中通」,同書寛文元年8月9日条に「八戸山根通代官」,同書同3年11月7日条に「八戸浜御代官」などと見え,すでに代官による通別支配が行われていたことがわかる。寛文5年八戸藩の領地が確定したのちも,この通別の代官支配が踏襲されたものと思われる。寛文11年には各代官の管轄区域として,「八戸廻浜通代官管下七千五百石」と見えている(八戸藩史料)。この頃は八戸廻・浜通が管轄地であったことがわかる。このことは,「八戸藩日記」元禄8年正月15日条に,八戸廻代官と浜通代官の2代官が見え,佐藤孫太夫が兼任されていることを見てもわかる。なお,代官所はなく,代官は八戸城中において執務した。八戸廻に属する村は,「貞享高辻帳」で見ると,三戸郡のうち八戸・類家・島守・是川・妙・中居林・松館・新井田・十日市・鳥屋部・角柄折・平内・白金浜・浜通・晴山沢・田代・道仏・小中野の18か村と,九戸郡のうち種市村(現岩手県種市町)の計19か村,高は合わせて3,098石余。「元禄10年高帳」では,八戸通村(柏崎・糠塚・沼館・沢里)・小中野村・類家村・中居林村・是川村(上是川・下是川・頃巻沢・石手洗)・島守村・田代村・晴山沢村・平内村・鳥屋部通村(鳥屋部・赤保内・野沢)・角柄折村・松館通村(松館・金山沢)・妙村・十日市村・新井田通村(新井田・田向・岩淵)・浜通村(浜通・金浜)・大久保村(のちの白金沢村)・道仏村・種市村の19か村,村高合計は8,061石余(うち田3,097石余)。なお,八戸廻のうちにも沢内通・御城下通・浜通・山根通・是川島守通などと通称される地域区分があった。沢内通は白山川(沢里川)流域,御城下通は八戸城の北側と城下の南側,浜通は城下東側の新井田川河口部,山根通は階上山地方面,是川島守通は新井田川中流域にそれぞれあたる。「八戸藩御勘定所日記」宝暦10年9月9日条によれば,御城下通は沼館・柏崎・小中野・類家・中居林・田向・糠塚の各村,浜・山根通は岩淵・新井田・十日市・妙・松館・大久保・金山沢・晴山沢・平内・角柄折・鳥屋部・赤保内・野沢・道仏・種市・金浜・浜通の各村,是川島守通は是川・頃巻沢・石手洗・島守の各村からなっている(八戸市史)。新井田川・馬淵川河口部の低平地は鳥類にめぐまれ,藩への献上物となっていた。「八戸藩日記」宝永元年正月21日条によれば,長苗代通・名久井通とともに八戸廻にも鳥見役が派遣されている。また,「八戸藩御勘定所日記」明和元年12月朔日条によれば,八戸廻に御献上雉子59羽が割り付けられている(同前)。「八戸藩日記」延享4年7月17日条の領内総馬改書上によれば,浜山根通(蔵入地分)3,993疋とあり,三代官(長苗代通・名久井通・浜山根通)給所は3,136疋とある(八戸市史)。「八戸藩日記」寛延2年12月26日条によれば,八戸廻代官所の百姓人数は1万3,732人とある(八戸藩史料)。当地方は耕作地に占める水田の比率も比較的に低く,畑作が中心であった。とくに大豆生産が盛んで,蔵入地に対する藩の買大豆割当の量も領内一であった。水田が少なかったため,「八戸藩御勘定所日記」明和3年の10月20日の条に「浜山根并湊白金通田形不足之場所ニ付,例年御納米市中米相調揃立上納仕候」とあるように(八戸市史),八戸城下で年貢米を購入して上納していた。延享4年浦数覚によれば,八戸廻には湊・白金・二子史・持越沢・鮫・白浜・深久保・種差・法師浜・大久喜・金浜・道仏・大蛇・小舟渡・角浜・平内・川尻・荒津内・玉川・戸類家・八木・宿部の諸浦が書き上げられており,舟1艘1年間の礼金は7分2厘5毛とある(八戸藩史料)。このことからもわかるように,漁業も盛んな地域であった。寛政8年の漁船書上帳(上杉家文書)によれば,漁船数は前浜通(白銀・鮫以南の海岸部)101・湊115・種市19とある。鰯をはじめ昆布・鮑・海鼠などの海産物があり,〆粕・干鰯・魚油などの生産も行われた。各村には,数村ごとに名主を置いて支配していたが,名主等書上(八戸市立図書館蔵)によれば,文化5年以降は大下書1名・下書8名・名主9名・田屋7名で各村を統治した。名主は柏崎村・町分・島守村・是川村・新井田村・山根村・湊村・種市村と人作地に置かれた。「八戸藩御勘定所日記」天保4年10月19日条に見える五御代官所御蔵給所御百姓共惣人数改書上によれば,人数は1万4,857人とある(八戸市史)。八戸地方では,畑作が中心で,天候の影響を受けやすく,諸要因が重なって飢饉の連続であった。おもなものとしては,元禄末年の大飢饉,享保13年の洪水に原因する損毛,猪が異常繁殖して田畑に被害を及ぼした寛延2年の猪飢渇,天明3年の大飢饉,天保3,4年の飢饉などがあげられる。とくに,文政期の藩政改革(増徴策)ともあいまって,天保5年正月には久慈通の百姓の代官出訴をきっかけに,八戸廻もふくむ全領の百姓が城下に押し寄せるという一揆が起きている。この一揆によって藩の経済政策のかなりの部分が改まり,天保7,8年の飢饉に際しては藩の百姓救済が施され,百姓の被害を最小限にくい止めることができたという(八戸市史)。明治初年の「国誌」によれば,当通の三戸郡の村々は青森県第9大区2・3・4・5小区に属している。現在の八戸市,三戸郡階上町・南郷村,岩手県種市町の一部にあたる。




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「角川日本地名大辞典」
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