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弘前八幡宮
【ひろさきはちまんぐう】


弘前市八幡町にある神社。旧県社。祭神は誉田別尊・息長帯比売命・比売大神。創祀は未詳だが,古くは鼻和荘の鎮守で八幡村(中津軽郡岩木町)にあったといわれる。社伝によれば,大浦城に拠った大浦光信が崇敬し,永正6年に再興。天文14年にも大浦為則が再建したがその後焼失した。やがて大浦城の鬼門守護神として再興されたといわれる。一方延宝8年の別当最勝院支配堂社帳には,当社はもと吉田村(中津軽郡岩木町賀田)にあったが,慶長17年に2代藩主津軽信枚が当地に勧請したという。その時の社領は30石であった(市立弘前図書館蔵)。津軽氏による弘前城築城は慶長16年で,勧請創建が城守護のためであることがわかる。神官小野氏は,郡中社人頭に命ぜられておりまた郡中の諸社をも支配した。このため社家も多く,当社参道は禰宜町と呼ばれている。寛永末年の津軽弘前城之絵図には禰宜町家数27軒,慶安2年の弘前古御絵図では禰宜15軒,最勝院下屋敷7軒などが見える。別当最勝院は金剛山光明寺と称し,12の支坊があった。「国誌」によれば,最勝院は真言宗,開基は天文元年で当社が八幡村にあったころからの別当で,一時猿賀神宮寺(猿賀神社,南津軽郡尾上町)の別当も兼ねていた。当社が弘前城に遷座した時にともに移ったといい,江戸期を通じて寺領300石,12支坊は各15石であった(国誌)。4代藩主津軽信政は天和2年8月15日に当社祭礼を開始し,以後周辺14町から山車が出されていた(津軽史)。山車は京都祇園祭の山鉾の系統をひく大型人形屋台で,各町の富商が中心となって出資し人形・衣装なども京都から仕入れた華美なものであった。のち明治15年に祭礼が中止になったが,近年では文化財として修理保全が図られている。明治期の神仏分離の際,神主の小野氏は社家隊取締を命じられ,また神仏分離布告も担当,同4年には社務触頭を務めていた。別当最勝院は当社と分かれて銅屋町に移ったが,支坊の1つ大善院のみこの地に留まり他の坊は廃寺となった(国誌)。明治6年郷社,同13年には県社に列格。当社の本殿および唐門は,津軽信枚が慶長17年に創祀した当時のもので,江戸初期の桃山風建築として優れたものである(国重文)。また神楽殿は寛永19年の建造である。社宝の太刀2振,長刀1振は慶長16年,同18年の銘があり,信枚の奉納が銘記されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7012675