角川日本地名大辞典 東北地方 青森県 40 弘前藩【ひろさきはん】 旧国名:陸奥 (近世)江戸期の藩名。陸奥国津軽郡弘前に居を構え,津軽部全域を領有した外様中藩。津軽藩ともいう。津軽の地は,戦国期まで南部氏の支配下にあり,津軽郡代が置かれて統治されていたが,郡代補佐の大浦為信が南部氏の内紛に乗じて天正16年までに統一を果たした。為信は,南部氏に先んじて所領の承認を得るため,天正13年をはじめとしてたびたび上洛を企てたという。同18年,小田原攻めの豊臣秀吉に拝謁,為信は津軽の支配を承認された。所領は同年秀吉の命を受けた前田利家・同慶次・片桐且元・小野縫之助などによって検地され3万石と確定され,合わせて津軽1万5,000石の太閤蔵入地代官に登用された。これによって津軽氏は,津軽地方の一有力土豪であり,また南部氏の被官であった地位から一躍大名に上昇し,南部氏からの独立を果たした。慶長5年関ケ原の戦では為信が2,000余の兵を率いて徳川方につき,戦後の論行功賞によって,本領3万石のほか旧太閤蔵入地1万5,000石を安堵され,また同6年上野国大館6か村・2,000石の加増を得て,所領は合計4万7,000石となった。その後,明暦2年,4代藩主津軽信政は2代藩主信枚の次男信英に津軽部のうち黒石2,000石と平内1,000石,上野国勢多郡2,000石の計5,000石を分知し,分家黒石津軽氏は旗本となった。黒石津軽氏は,寛文2年2代信敏が弟信純に黒石のうち500石と上野勢多郡のうち500石の計1,000石を分知した。この結果,「寛文朱印留」では弘前藩領を4万7,000石(津軽郡一円133か村4万5,000石・上野国勢多郡内6か村2,000石)としたうえで,うち津軽信敏が4,000石(津軽郡内2,500石・勢多郡内1,500石),津軽信純が1,000石(津軽郡内500石・勢多郡内500石)を拝領しているとされ,本藩領は表高4万7,000石だが実際には4万2,000石ということになる。のちに元禄2年に信純家は断絶となってその1,000石は幕府に収公され,元禄11年には黒石津軽氏が幕府に収公された旧信純家領の黒石500石を取り戻すため,上野国の残り1,500石を幕府を献じ,この黒石500石(実高1,128石余)と陸奥国伊達郡秋山村371石余で取り替えた。のち文化6年,黒石津軽氏は当藩から蔵米6,000石を分知され,1万石の大名として黒石藩を立藩する。一方,当藩はこれより先文化2年に蝦夷地警衛により7万石,同5年同じ理由で10万石に高直しされた。黒石藩を分立されたのもこの蝦夷地警備の強化と関連があるものと思われる。なお,黒石藩への6,000石分知は蔵米からあてられていたので,当藩の表高4万6,000石に変更はなかった。また,明治2年藩主承昭は戊辰戦争の軍功により賞典禄1万石を加えられたが,この1万石は同年の版籍奉還により制定された家録に加えられたので,ここでもまた表高は変わらなかった。これに対し,内高は,「正保高帳」では平賀軍1万9,265石余,同新田1万5,633石余,田舎郡1万1,376石余,同新田1万8,401石余,鼻和郡1万4,358石余,同新田7,972石余の本田計4万5,000石,新田計5万7,468石余,合計10万2,468石余(336か村),「寛文高辻帳」では15万4,849石余(341か村),「貞享郷村帳」では24万4,307石余(534か村),うち新田19万7,302石余,元禄元年「御郡中御検地高目録」では26万1,831石余(634か村)・反別3万4,020町8反余,「寛保高辻帳」では24万2,353石余,「旧高旧領」では32万9,673石余(828か村)と増加した。藩主は,初代為信が慶長12年に死去すると,その跡目をめぐる「大熊騒動」が勃発したが,この騒動を終結させる過程で2代信枚(信牧)の権力基盤が固まり,慶長14年幕府年寄衆連署奉書をもって信枚系統の子孫が藩主家を相続することに決定をみた。信枚のあと,信義―信政―信寿―信著―信寧―信明―寧親―信順―順承―承昭と継承された。津軽氏は,はじめ堀越城に拠っていたが,津軽平野の中心部に位置し,西に岩木川,東に土淵川を配した高台で天然の地の利を得た高岡の地に,初代為信が慶長8年に町割りを開始した。しかし,本格的な築城は慶長15年から2代信枚によって行われ,1年3か月を要して翌年に五層の天守閣がそびえる高岡(弘前)城が完成した。築城とともに城下町の建設も始められ,城郭を中心に家臣団の屋敷割りがなされ,また全国から商工業者を集住させて城下の繁栄を図った。城下からは西浜街道,碇ケ関(いかりがせき)街道などが通じていた。城下町は寛永5年弘前と改称され,慶安2年頃の城下絵図によれば侍屋敷530余,町人屋敷1,000余であった。弘前城下は宝永5年には総家数2,080,うち扶持人167・名主12・月行事39・五人組頭94・名主小遣42・自身番58・旗番25・木戸番59・添番55・平木折40軒・石渡橋守11・町中橋守12・博労町16・山伏4・座頭1,その他1,445軒であった(国日記)。元禄14年の地子銀定では上役屋敷52匁・8分・中上役40匁4厘・中役37匁7分・下役25匁5分・下々役11匁5分5厘,東長町と北横町では屋敷1軒10匁,和徳町10匁,土手後新町10匁,茂森町10匁,紙漉町10匁,楮町10匁と定められた(県租税誌)。宝暦6年には上役屋敷91・中上役屋敷77・中役屋敷67・下役屋敷50・下々役屋敷35を年間の出人夫数とした(一戸家記)。宝暦年間の調査による藩律では,弘前の戸数5,360余・人口3万1,200余,家中は武家町39に居住し,武家戸数1,270余・人口1万4,600,商人街は43町,戸数4,090余,うち1,030余は借家で,人口1万6,600余人とされる。また,寺99・神社12・庵39があり,町中に橋50が架けられていた。「平山日記」では元和元年に730か村に1万3,000軒の屋敷があり,その半数を諸給人としている。「政要宝典」では寛延3年の領内人口15万1,072(含黒石領)。宝暦年間では藩律に弘前城下を除いた領内戸数3万2,810,うち九浦3,290,在方2万4,220余,人口22万2,280余,うち九浦1万8,380余,在方17万2,700余とされる(平山日記)。天明元年の人口は家中1万6,974(男9,003・女7,971),弘前1万6,847(男8,829・女8,018),九浦1万9,093(男9,831・女9,262),在方18万9,742(男10万327・女8万9,415),僧・修験・社人・座頭等4,166で,総数は合致しないが24万6,822(男12万9,888・女11万6,934)とされる(藩民戸口業斑牛馬船総括)。寛政8年の調べでは在方の戸数2万1,411・人口12万25であり(県租税誌),天明飢饉による人口激減がうかがわれる。文化元年には弘前の人口1万4,505(男7,523・女6,982,含黒石町),在々浦々15万6,117(男8万750・女7万5,367,含黒石領),その他僧尼・社人・座頭2,849人とあり,総計17万3,471人(国日記)。同7年には家中の戸数1,217,人口1万4,928(男7,390・女7,538),弘前の戸数3,401(本家2,699・借家702),人口1万499(男5,343・女5,156),九浦の戸数2,843(うち本家2,441・借屋388),人口1万2,899(男6,421・女6,478),在方の戸数2万1,568(うち本家2万1,032・借屋6),人口12万4,640,寺院・修験・在家・座頭の寺数145・庵数114,戸数211(本家206・借家5),人口1,934(男1,185・女749)。寺社門前の戸数274(本家251・借屋23),人口589(男291・女298)となっている(県租税誌)。明治2年には総人口25万7,959,このうち士分以上は戸数1,876・人数1万2,599,扶持方は戸数1,951・人数1万1,324,農は戸数3万1,883・人口19万3,636,工は戸数1,086・人口5,539,商は戸数9,236・人口3万2,028,社家は戸数137・人口771(男359・女412),寺院は戸数269・人数746,修験は戸数106・人口525,座頭は戸数17・人数691(男142・女549)となっている(同前)。弘前家中の給禄は,元禄8年の分限帳では知行高12万1,297石,俵子1万3,280俵,金子4,246両余,扶持3,666人などとなっている(津軽史)。安永年間では知行高8万3,479石余,役高2,450石,俵子1万1,817俵,同役料1,500俵,同勤料530俵,金給3,790両余であった。寛政年間では知行高と役高で8万5,929石余,扶持と勤料2,780人扶持,俵子・切米・役料・勤料合わせ1万3,717俵,金・切米3,799両余で,総計9万9,938石余にのぼった(県租税誌)。4代信政は,岩木川下流域における治水と新田の積極的な開発を行い,貞享の領内統一検地,山林制度の整備,屏風山の植林,さらに織物業・紙漉業・塗業などの振興,また法制・軍制の整備などを行い,藩体制の確立を図った。江戸前期の新田開発は派立と称されている。その主要なものは小知行派立と御蔵派立で,前者は元和・寛永年間に既に見られる。従来は鍬下年季・諸役免除のほか,開発地の一部を土豪や足軽に与え知行高として小知行・新知士に取り立てるものを小知行派立,これに対し藩営新田の性格を持つものを御蔵派立と考えていた。しかし,「国日記」に見る開発のあり方から見ると,両者とも藩士・小知行を新田頭としており,ただ開発地に割当てられる耕作者が小知行であるか,蔵入百姓(御蔵百姓)であるかにより,小知行派立,御蔵派立が区別されている。寛文~天和年間まではこうした派立を奨励したが,天和元年からは広須新田御掟条々に見られるように資金や工事等を藩を主体として遂行する藩営新田があらわれ,貞享2年の知行蔵入化とともに同藩の新田開発の中心形態となった。こうして天和~天文年間に広須・金木(かなぎ)・俵元・五所川原の4新田が成立した。新田高は,正保2年10万2,468石余,寛文4年15万4,849石余,貞享4年26万1,321石余,元禄7年29万6,699石余,享保9年30万4,028石余,宝暦8年30万5,080石余と変遷をみているように,信政の治政の寛文~元禄年間にかけて急増し,元禄6年には朱印高の6倍にも及んでいた。寛永年間に総検地が実施され,明暦3年にも検地が実施されたというが,明らかではない。「国日記」等で確認されるところでは,寛文5年に明暦検地以降の開発地に竿入されたのをはじめに,寛文11年の外ケ浜検地を皮切りに天和2年に至るほとんど毎年検地入りがなされている。この検地で生産と土地丈量を実現していた。しかし,寛文~延宝年間にかけて当領内でも小百姓の自立傾向が強まり,本百姓である役負担農民(御蔵百姓・給知百姓)の経営の破綻,それに伴い不作が連続した。また全国市場である大坂と西廻航路で直結すると,藩財政は借銀が重み,その返済のため大量の米を移出する必要に迫られた。天和2年,当藩は幕領越後高田領の検地に動員され,そこで得た検地技術をもとに天和4年各村から書上を提出させ,貞享元年~貞享4年まで統一検地を実施した。新検と称される同検地では6尺1寸竿が従来の6尺5寸竿に代わって用いられた。検地は惣奉行大道寺隼人,補佐間宮求馬,元締役武田源左衛門・田口十兵衛などを中心に進められ,実に朱印高に相当する4万2,000石の出目を出した。当時の農民たちは,この検地を皮肉って,「新検を打詰たりや田口迄,隼人が求馬,罪は源左衛門」と詠んでいる。検地によって村位は上・中・下の3段階に評価され,村位ごとに石盛の異なる田位が付けられ,たとえば上田の石盛は上村13・中村12・下村11とされた。そのほか下々田の下には斗代田・銀納田・稗田・四ケ一取米田が置かれた。また物成は田方6割,畑方5割が定則とされ,小物成として山手米・野手米・夫米・口米・津出米があり,ほかに高懸銀・卯年代銭・太々神楽料などを課した。この検地に基づいて,地方ではそれまでの遣にかわり組が新たな支配・行政単位となった。遣は寛文4年の定では15遣(御定書),寛文12年にはそれまで22遣あったものを再び15遣としており(国日記),延宝4年には下ノ切遣から五所川原遣が成立し16遣となった。ただし,天和3年の検見入報告書では,遣とは別に富柳・清野袋・川倉新田が別に区画されている(国日記)。貞享4年から組が編成されて,田舎庄に田舎館・藤崎・柏木・常盤・増館・浪岡・赤田・広田・飯詰・金木・浦町・構内・油川・後潟・広須の15組と木作・金木・俵元の3新田,平賀庄に大鰐・尾崎・和徳・堀越・大光寺・猿賀の6組,鼻和庄に高杉・駒越・藤代・赤石の4組が置かれた。これら2~4組に2名の代官が置かれ,1名は任代,1名は弘前に詰めて郡奉行の支配をうけた。年貢米収納のため各地に藩蔵も置かれた。江戸後期では弘前に東蔵・北蔵・亀甲蔵があった。東蔵は和徳・堀越・大光寺・大鰐・猿賀・尾崎各組の43か村分を収納,北蔵は和徳・堀越・大光寺・猿賀・大鰐・尾崎・田舎館各組の56か村,亀甲蔵は和徳・大鰐・尾崎・駒越各組の37か村の年貢を収納し,弘前三蔵と称された。青森蔵は青森町の新町にあり,浦町・横内・油川3組の88か村の年貢を収納,鰺ケ沢(あじがさわ)蔵は鰺ケ沢町の七ツ石町にあり,赤石組42か村の収納にあたった。このほか,石渡蔵は56か村,高杉蔵が22か村,板屋野木蔵が61か村,藤崎蔵が48か村,浪岡蔵が38か村,五所川原蔵が61か村,金木蔵が17か村,床舞蔵が39か村,八幡蔵が19か村,木作蔵が88か村,蟹田蔵が27か村,今別蔵が6か村,十三蔵が14か村,深浦蔵が18か村,内真部(うちまつべ)蔵が14か村の年貢を収納している(県租税誌)。4代信政は,このように新田開発と統一検地,代官支配機構の確立などに努力し,さらに養蚕の奨励,文武の興隆などにみるべき成果をあげたが,元禄8年の大飢饉など領内の不作に悩まされ,また新田開発も頭打ちになるなどの,治政末期には藩政に行詰まりをみせた。特産物としては米のほかに木材もあったが,他にみるべき産物はなく,わずかに楮などの栽培を奨励したにとどまり,藩財政は窮乏していった。このうち漆についてみると,当藩では寛永7年に5万4,700本の漆木が完全により植え付けられたというが,定かではない(津軽塗の創始についての研究)。当領での漆の増加は江戸前記から享和年間と,文化年間から幕末にかけての2期に分かれる。延宝6年には漆86貫余を得,天和2年には91貫余を収量している(国日記)。「貞享4年検地水帳」による漆木数は,横内組の5万3,478本を最高に32万3,112本,漆林53町7反余,漆畑37町9反余。元禄10年には39万7,900本,宝永元年は30万8,200本,漆仕立人300人,水漆270貫目,漆実2,700石を得ている(同前)。享和元年には20万本に減少,鉋入本数は4万625本に落ち込んだ。文化年間は約20万本の水準であった。文政年間に入ると急増し,文政元年御郡内漆木実数調帳では143万498本に達しており,鉋入木は4万4,618本であるので,同年前後に苗木植付が大幅に行われたのである。以後は計画であるが,天保4年には500万本,嘉永5年には900万本の増殖が計られた。この支配と統制のため漆奉行が置かれた。その名称は延宝5年の「国日記」に見られる。勘定あるいは郡奉行支配にあり,寛政3年に郡所普請方支配,文化7年には漆奉行が再置され,変転ののち文政元年から国産方扱いとなり,天保10年以降は郡所扱方となっている。なお,文政7年の調べでは当藩領の主要河川を水源として80余の取水堰が設けられ,潅漑が行われている。浅瀬石(あせいし)川には16,平川には35,岩木川には1,赤石川には15,荒川には3となっている。これらを用水として寛政8年には20万9,430町6反余の田畑が耕作された。また当領の農耕は馬耕を中心としており,同年には馬3万1,354頭・牛333頭,明治2年には馬3万1,869頭・牛540頭が飼育されていた(県租税誌)。寛政8年の調べでは当藩領には2,373艘の船舶があった。うち40~200石までの大船は76艘,荷舟~30石までの中船は270艘,漁舟など小船は2,217艘であった。明治2年には2,537艘あり,西洋型平船三本柱1艘,和船平船280~520石まで3艘,和船平船押切飛脚船2艘,和船商船700~1,200石まで7艘,同40~220石まで78艘,同川舟30石まで293艘,漁船など2,154艘となっている。(同前)。当藩は享保10年以来,蔵元であった茨木屋・鴻池など上方商人から連年借金を繰り返していた。こうして宝暦3年の藩政改革までに借用金は,上方から24万両余,江戸から4万両余,国許から6万両余の計35,6万両に膨れがあった。宝暦3年から同8年にかけて行なわれた宝暦改革は,その藩財政の行詰まりを打開すべく,乳井貢を中心に実施された。乳井は,第1に上方・江戸の貸借関係の整理に着手し,金主からの無期限延期や3か年の延期に成功した。これによって従来利息同然にとられていた廻米が領内に蓄積し,さらに米切手を発行して諸国から金銀を集め,改革の第一歩が成功した。さらに,第2として国産奨励と領内物資の移出入調整策を行い,第3に商売地を弘前・森崎・鰺ケ沢に限り,地方特権商人を運送方として掌握することで商業ルートを藩の管理下におく政策を展開した。第4にとりあげたのは代官を削減し大庄屋制を採用して在方支配を強化することであった。そのほか藩庁機構の整理統合,綱紀の粛正,士風の振興,倹約の奨励など改革によって強化されたことはいうまでもなかった。こうして宝暦4年までに改革は一応成功し,同年12月には家中の借上米を中止するまでに至った。ところが,宝暦5年藩は大凶作に見舞われ,23万石のうち19万石の減石という惨状を呈し,改革は一頓挫した。翌年,乳井は標符(米切手)を発行し,正銭は額面の10分の1支給とし,同時に貸借無差別の徳政令を発して対応した。しかし,これによって藩内経済の混乱を招き,「当年は標符によって御家中,町在の難儀凶作よりも十倍」(永禄日記)と怨嗟の声が聞かれるようになり,当時の落首にも「上は勝下は次第に詰将棊,標符はいつか金と成やら」とある。この状態をみかねた耕春院の住僧覚源は,宝暦7年,6代藩主信著の妹婿である老中松平忠恒に訴え,藩は一連の標符政策を撤回した。翌8年乳井は罷免され,改革は失敗に帰した。ちなみに,明和年間の藩律によれば,領内の戸数3年2,800余,入口22万2,000余,村数800とあり,うちアイヌは240余人,士族1万4,600余人,商家1万6,600余人であったという。そして,明和3年の大地震,安永4年の疫病流行,同7~8年・天明元年の岩木川大洪水など天災続きとなり,さらに天明3~7年は長雨・冷害・水害などによって大飢饉となった。天明3~4年の領内の餓死者は男4万6,882・女3万4,796,斃馬1万7,211,荒田1万3,997町余,荒畑6,931町余と伝え(津軽歴代記類),餓死者は領内人口の3分の1にのぼり,田畑の3分の2は荒廃した。天明の大飢饉を経て,その難局の打開を目指して実施された寛政改革は,全国的にも類をみない藩士土着政策という思い切った政策を実行した。弘前城下に集住する藩士を自己の給地に帰郷させ,商品経済から切り離し,藩士財政の自立を求める極めてユニークな施策であった。寛政7年の御家中在宅之族村寄によれば,文化10年時の村数793か村のうち,在宅村数は257か村,在宅者数は796人に達した。在宅はほぼ弘前周辺の諸村に集中している。土着制廃止後,享和元年から廃田復興と殖産興業が藩政の中心課題となり,享和3年から文政初年まで開発高は3万8,000石余にのぼった(津軽歴代記類)。このような開発は農民負担増となり,また蝦夷地警固のための郷夫徴発により文化10年には木造・広須・藤代・高杉組百姓2,000人による強訴を引き起こした(津軽歴代記類)。これは民次郎一揆と呼ばれ,領内最大の一揆であった。一方,寛政年間に入って,帝政ロシアの南下が顕著となり,弘前藩は蝦夷地警備を幕府から命じられた。寛政9年からの警備は勤番体制をとるようになり,軍役規定の改変を余儀なくされ,松前への出兵警備は文政5年まで継続した。弘前藩の権力編成,特に軍役については,初期のことは明らかではない。「国日記」によれば,延宝8年に軍役規定を改訂したことが知られる。御軍役によると,改訂された軍役では100石に従者6・馬1・鑓1と定められ,300石からは従者13・馬1・鑓3・鉄砲5・弾丸50・弓2・矢50と鉄砲・弓の負担が定められた。寛政年間の蝦夷地出兵を契機として,10万石への高直しや給人の軍役負担の困難化から,300石では従者6,馬0,鑓1,鉄砲1,弾丸100,弓・矢0と負担軽減化と実戦力増強を目的として文化8年に新軍役が定められ,安政4年の箱館詰の軍団編成まで適用された。同時に領内沿岸の警備も充実を求められ,蝦夷地への渡海口である三厩(みんまや)には駐屯体制がしかれ,安政2年に再び蝦夷地警備を命ぜられた。一連の蝦夷地警備の勤功によって,弘前藩は,文化2年に7万石に,同5年には10万石に高直しを受け,領地の拡大がなかったにもかかわらず,朱印高のみは2倍以上となった。このような領地高の倍増につれて軍役高も増加の一途をたどり,領民の負担も過重なものとなった。一方,寛政8年には藩校稽古館が創設され,古学(のちに変更)を中心とした儒学と,武道・医学教育も行われた。天保改革は,文化文政年間から継続した凶作や,天保7年の鬼沢村百姓一揆など領内の危機が深まるなかで,直接的には蝦夷地出兵などによる財政難を打開すべく,天保10年に実施された改革であったが,楮植付と貯穀を主眼とする消極的な政策に終始し,みるべき成果をあげたとはいえない。幕末維新期に至り,弘前藩は中央の政治情勢を的確に掌握することができず,陸奥列藩同盟に参加はしたものの,封建割拠主義に拘泥しかつ小藩意識が作用して,ついにその中でリーダーシップを発揮することができなかった。藩論は最終的には勤王に決したが,他藩と同様,終始日和見的な態度であった。明治元年の庄内征討命令に促される形で,軍制改革が実施された。弘前藩は明治元年から山鹿流軍制を廃し,軍政局を中心に軍制改革を行った。ミニエー銃・ゲベール銃による惣兵銃隊が編成された。家中の次・三男を中心に2等銃隊を編成し,手廻・馬廻番士の1等銃隊に加えた。のち手廻を御書院番銃隊,馬廻を表御書院番銃隊として本城守備,2等銃隊を3等銃隊として南部口・秋田口に派兵した。同年の東北戦争終結後の箱館戦争に際しては農兵隊が組織されている。農兵隊は安政年間に異国船警固のために設けられたというが,明治元年,藩兵数寡少のため領内重要拠点守備を目的として編成された。軍奉行を頭とし小隊指令官に代官,副役に軍政役教授が任じられ,郷土・帯刀役といった農民上層を上位に置き,8匁ゲベール銃を備えた。しかし,門閥譜代層が主導権をとって進めたこともあって,弘前藩の軍制改革は戊辰戦争後も,旧来の軍事編成に逆戻りするなど,本質的な身分制改革に至るものではなかった。明治2年,版籍奉還によって藩主承昭は弘前藩知事に任命された。「藩制一覧」によれば,明治初年の状況は,元高10万石,草高27万4,482石余(新田改出高とも),正租は米13万854石余,雑税は米9,997石余・金9,530両余,戸数5万162(うち士族2,066・卒族2,261),人口27万8,842(うち士族1万2,469・卒族1万215),神社873,賞典米5,000石,兵隊は兵士2,057・兵卒1,449,大参事2・権大参事3・少参事4・権少参事4。また,明治4年弘前県を経て青森県に引き継がれた弘前藩領は826か村,高32万3,673石余,反別5万6,633町7反余で,年貢と諸役あわせ15万8,273石余・永3,414貫余が収納されていたとする。明治4年7月14日,廃藩置県により弘前県となる。 KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7012676