洞内
【ほらない】

旧国名:陸奥
古くは「ほなない」ともいった(元禄郷帳)。小川原湖南端に注ぐ砂土路川中流域の台地に立地する。西から小増沢川が流れこんでくる。その合流地点を南北に奥州街道が通っている。縄文時代の遺跡は砂土路川沿いに連なっており,早期から晩期までの土器が出土するが,主なものは円筒下層式・上層式のものである。また千刈田へ下る前田遺跡からは,土師器・須恵器片が出土している。小増沢川沿岸に豊良(とよら)館,砂土路川沿岸に小田館,合流した所の右岸に洞内館がある。洞内館(城)は洞内田之進の館と伝え,天正19年九戸の乱に七戸城主の攻めるところとなって落城,洞内氏は滅亡したという(大深内村史)。天正20年6月11日の南部大膳大夫分国内諸城破却書上に「〈同(糠部郡之内)〉洞内 平地破 佐藤将監持分」と見え,同年破却された(聞老遺事/南部叢書2)。慶長初年と推定される10月6日の南部信直書状に「七戸より洞内迄もち候者,あれより河はたまてもち候やうニことハり申へく候,河はたより沢田・切田・米田・伝法寺・新田まてもつ申候,新田より三戸へもつ申候」と見え,信直は木村杢に対して当地などを経由して材木を三戸に送ることを命じている(木村文書/岩手県戦国期文書Ⅰ)。また,10月19日の南部信直書状にも「ほなゝいよりはしら其方まてかつき候ハゝ,戸来まてかねて言付候て,次日ニ三戸へと越候へく候」と見える(同前)。洞内館の北郭内に法蓮寺がある。「土俗の申伝るに,往昔真壁の平四郎入道して名を発心と改め,入宋して帰朝以来,松島青竜寺を相改め瑞巖寺と改号して中興なし賜へども,雲水の身となり,則此村に一寺を建立して歴遊の衆徒之助にもならんかしと思召されども,元来土俗不足之也にしてせん方も無処より,自ら鍬鋤を取て聊か田畠を起し玉ふに,不日して数畝の田成就せし」という(鹿角日誌)。後に廃寺となったので,「承応元年野辺地常光寺ノ末寺トナリ,四世玉淵天雪ニ至リ伝法開山トナリ,曹洞宗ト改宗セリ」(大深内村史),地福山と号す。豊良に八幡があり「祭神誉田別命,勧請年月未詳」(上北郡村誌)とある。
【洞内村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【洞内(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7012869 |





