本町①
【ほんちょう】

旧国名:陸奥
(近世~近代)江戸期~現在の町名。明治初年~明治22年は鰺ケ沢(あじがさわ)を冠称。江戸期は津軽四浦の1つ鰺ケ沢町のうちの1町。中村川河口部左岸の鰺ケ沢湾沿岸部に位置する。北側は日本海に面し,南方には丘陵地(小夜ケ丘)が広がる。西側の一丁目と東側の二丁目とに分かれ,西側は新町,東側は七ツ石町に接する。町立ての時期は明らかではないが,鰺ケ沢では最も早く開けた所とされ,それゆえ本町の名がある(鰺ケ沢町史)。慶安2年の鰺ケ沢絵図に町名が見える。当町南部の丘陵地上に弘前藩の仮屋が置かれた。仮屋は藩主巡見の時の宿泊所で,平時は鰺ケ沢町奉行所であった。仮屋の築造時期は明らかではないが,江戸初期当地域は津軽百助の支配地であり,正保2年まで百助が鰺ケ沢に居住したといわれ(同前),町奉行が任ぜられた寛文8年(一説に3年)頃から,鰺ケ沢仮屋入用として柾5万枚が藩に請求される貞享2年頃までの間に完成したものと思われる(国日記)。「貞享4年検地水帳」では本町の家数129で,仮屋は御屋敷と記され,屋敷地3町2反9畝6歩,分米39石7斗3升2合。仮屋の建物には町奉行居間・町会所も付属する(鰺ケ沢御仮屋御建坪之図)。元禄16年の絵図によれば,当町は一丁目と二丁目とに分かれ,一丁目の家数70,二丁目の家数89であった。当町は鰺ケ沢町の中心であり,元禄5年松前渡航中不明となった15隻の漁船のうち6隻が当町町人の所有であった(国日記)。嘉永3年松浦武四郎「東奥沿海日記」によれば,一丁目は船問屋・商家が立ち並び,船番所が置かれており,二丁目には問屋・船宿が並ぶと記している。元治元年の岩崎村弁天宮の奉賀帳には,当町の町人として,一丁目では松山屋・小浜屋・竹屋・岐師屋・塩屋・三国屋・菊屋・大塚屋・糀屋・三津屋・油屋と加藤・七三郎・太田の名が見え,二丁目では杉野屋・広瀬屋・佐野屋・堺屋・中田屋・岡部屋・松屋・糀屋と長谷川・小山・宇太郎・平田・佐助・菊川の名が見える。当町の山手にある白八幡宮は,江戸期は鰺ケ沢八幡とも称され,弘前八幡宮・浪岡八幡宮とあわせ津軽三八幡宮の1つとされた。祭神は誉田別尊で,坂上田村麻呂勧請の伝承をもつ。康元年間北条時頼が再建。津軽氏では為信が慶長8年に再建したという(津軽一統志)。のち旧郷社。鰺ケ沢湊は戦国末期より畿内への連絡路であり,また江戸期には廻米により藩経済が成り立っていたため,同社は航路の安全・武運長久を祈願する大名・武士・商人・水主の幅広い信仰を集めた。寛文6年にも津軽信政によって社殿が再建され,調度の寄進を受けた。例祭は8月15日で延宝6年の例祭の記事が「国日記」に見える。元禄10年には,近年町行中不如意のため,祭礼を御輿渡御と神楽のみに限っている(国日記)。現在は4年に1度,渡御・曳山運行などが行われる。航路安全の絵馬は船絵馬として江戸中・後期頃から奉納され,また,本殿をめぐる50本の玉垣にも全国にわたる寄進者の名が刻まれている。明治初年の戸数199,うち鰺ケ沢5,町域は「一丁目と二丁目と分ち,上は新町より下は七石町まて八丁三十一間三尺・巾五尺五寸」といい,また,「旧津軽家の官舎あり,下浜荷上場なり,この上の方に中浜・上浜と唱る荷上場二所あり」という(国誌)。地内の鰺ケ沢は「一丁目より南の山野に通る小街なり,長一丁十五間巾三間……町末に鰺ケ沢と云ふ水沢あり,其流尾海に入る,今水涸て纔に小池を存す,村名の因て起る処なり」という(同前)。さらに,浜の傍に港番所があり,地内鰺ケ沢に倉廩2か所があった(同前)。明治22年市制町村制施行により成立した鰺ケ沢町に所属。大正4年の戸数131・人口852。世帯数・人口は,昭和40年258・927,同45年261・940,同50年256・832,同59年210・662。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7012892 |





