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松森町①
【まつもりまち】


旧国名:陸奥

(近世~近代)江戸期~昭和43年の町名。明治14~22年は汎称として青森を冠称。江戸期は青森町のうちの1町。堤川河口部左岸の海岸平野に位置する。北側は青森湾沿岸部にあたり,南方には青森平野が広がる。旧市街地の東南部にあり,西は大工町,北は博労町にそれぞれ接する。寛文年間の絵図では,当町域はまだ田畑で町立てはされていない。天和2年青森に「こけ萢新田」約500石が成立,郷足軽20~30人の給地としようとした。青森で新田と称されたのは松森地子新田だけであるので,この「こけ萢新田」がのちの松森町であるという(青森市沿革史)。「貞享4年検地水帳」にはじめて松森町と見え,同検地により青森町の1町となったという(同前)。同検地帳によれば,屋敷数49,ほかに町奉行役屋敷2・御目付役屋敷1があり,屋敷地の面積は計1町5反1畝24歩,この分米は12石3斗7升7合とある。なお,同年には当町名主の名が見えない。同4年には飢える者が続出し,拝借米を下付されている。また,同5年正月には,当町のうち12軒47人が救恤米を受けている(同前)。元禄4年には9月・10月の2度にわたって洪水があり,9月には「松森町不残四十軒」,10月には「松盛町四十九軒」が浸水するという被害があった(同前)。このように堤川沿いの低湿地であったため,たびたび洪水の被害を受けた。享保10年の青森町惣家別相改帳(八木橋文庫蔵)によれば,当町の町家は74軒とある。当町は新博労町とも称され,味噌・醤油の製造所や酒造家の奉公人および駄夫らが多く住んでいたという(青森市町内盛衰記)。天明元年には当町の町役負担が見られず,正式の町としては把握されない場合もあったことがわかる。寛政3年の調べでは,西側大工町との間に,長さ3間・幅1間半の橋がある(青森市沿革史)。明治5年3月には当町より出火,青森町東部475軒を焼失する火災があった(同前)。明治初年の戸数82,町の状況は「大工町の東に接し,長四丁十九間一尺六寸,堤川岸川上通に至る幅二間半……多は農民の住居なり,南は田圃にして」という(国誌)。また,当町と北方の蜆貝町を南北に結ぶ小路を弟飴之角(または丸本橋通)と称したという(同前)。明治20年,もと青森県師範学校長・専門学校長であった沖津醇によって,当町に市立青湾学舎が開設された。公立小学校に入学できない子弟に低学費の教育を行い,また県内最初の夜間部も設けられた。のち同校は明治32年に廃校,校舎はのち桔梗学院附属小学校の校舎となった(県教育史)。明治22年青森町,同31年からは青森市に所属。明治22年の戸数69・人口376,反別は宅地1町余のみ(青森市史)。同24年浄土真宗明耀山光行寺が仁本法恵によって開山された。第2次大戦後東青病院が設立された。昭和43年青柳1~2丁目・堤町1~2丁目・本町1~5丁目となる。




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「角川日本地名大辞典」
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