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伊沢八幡宮
【いさわはちまんぐう】


水沢市佐倉河にある神社。鎮守府八幡宮とも称す。旧県社。延暦20年に坂上田村麻呂が東北経略の守護神として宇佐八幡宮を勧請したと伝える。鎌倉初期の文治5年9月,源頼朝は「伊沢鎮守府」において八幡宮に奉幣,「向後に於ては,神事悉く以て御願として執行せしめ給うべし」と命じた(吾妻鏡)。当宮が将軍家祈祷所として鎌倉の支配下に置かれるにいたったことが知られる。当宮の供僧神官らの威勢は目覚ましく,中尊・毛越両寺または奥州総奉行葛西氏を相手取って鎌倉の法廷で争うほどであったともいう。さらに,伊沢八幡宮の放生会は葛西氏によって調達された奥羽両国の所済物(年貢)をもってする国家的行事であり,中尊・毛越両寺の供僧らも招かれ布施を賜ったという(中尊寺文書嘉元3年3月日中尊毛越両寺衆徒等言上状)。鎌倉幕府の滅亡によって当宮の威勢は大きく傾くこととなった。南北朝期の争乱期には近隣の甲乙人らが宮内に乱入,社領の竹木を切り取るなどのことがあり,社家の衰微が取沙汰されるほどになった。貞和4年奥州管領吉良貞家は当社の保護に乗り出し,甲乙人らの乱入停止の禁制を掲げるとともに「胆沢・江刺・和賀・気仙・斯波郡等の棟別」をもって社殿の造営を行えと命じた(鎮守府八幡宮所蔵文書)。数郡の民家から徴集した棟別銭といえば大金であり,工事の規模が察せられよう。室町・戦国期には葛西の家臣,柏山氏の保護を受けることとなった。当社には,天文年間の米50俵などを寄進した柏山明吉の印判状2通が存する。この頃,社家別当等山正覚院は羽黒派の修験道に属して柏山などの近隣諸家の祈祷に当たった。なお,中世では当宮を鎮守府八幡宮と称した事例はなく,この呼称は近世以降か(奥州鎮守府八幡宮の歴史的考察/東北学院大学東北文化研究所紀要8)。天正年間豊臣秀吉の命で浅野長政が造営にあたったと伝う(同前)。現在の社殿は文化7年建造。大正11年県社に列せられる。例祭は9月15日。旧暦正月6日より7日間勢子祭。江戸末期,北海道にロシア船が来航した時,幕府老中・函館奉行が退散祈願をしたといい,大戦の際の武運長久など国家危急の秋に篤く信仰された。現在では合格祈願・交通安全祈願などが多い。境内に胆沢城跡出土品収蔵庫がある。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7013578