鹿妻穴堰
【かづまあなぜき】

盛岡市―同郡矢巾町―同郡紫波町を通る用水路。雫石(しずくいし)川南岸と北上川西岸を潤す。開削者や時期については諸説がある。森嘉兵衛は,慶長4年説や慶安説があることなどに注意しながら,用水路が幹線水路として役立つようになったのは寛文12年であるとしている。慶長4年は,南部利直が各地の用水施設の増強に力を入れた年に当たる。森はまた開削者について,岩石に対する知識や隧道を通す技術を有する者が必須の条件であったことなどから,小国鉱山で働いたことのある下閉伊(しもへい)郡釜津田村出身の釜津田甚六と推定している。寛文4年,盛岡藩は信房に2万石を与えて八戸藩として独立させた。藩主重信はこの減額分を新田開発によって補うため,その積極的な奨励に当たった。当堰の大改修も,その1つとして取り上げられた。このために藩が拠出した普請資金は金100両,その他の諸経費は,水懸農村の飯岡通9か村,向中野通9か村,見前通5か村,徳田通4か村,計27か村が水懸田1万3,440石余を案分して支出。堰の改修は,その後もたびたび行われ,寛政11年の支堰は31,水田は1万3,444石に達している。支堰のうち最大のものは太田堰の2,123石,次いで二又堰の1,850石,新堰の1,601石。これらの管理は村の共同で行われる。享保元年,洪水のため穴堰が大破したため,飯岡村から修理の申し出があったが許可とならなかった。このため文化元年まで4年がかりで2万7,000人の人夫によって新堰を開削している。寛政11年から安政3年の60年間に,番水に関する取り決めが詳細になっているのは,水の供給量が不足だったことによるとみられる(近世奥羽における用水政策の展開)。用水の取入口は,雫石川が山間部から平野部に出る地形の変換点にあり,右岸から突き出た岩塊をくりぬかなければならなかったことなどから,当時としては特に優れた技術が応用されている。堰の管理は,明治初年の水利土功会から,同35年の普通水利組合,昭和26年の土地改良区と変わっている。明治27年の水利費賦課面積は2,852町であるが,大正末年までは面積の変化は少なく7%増にすぎない。昭和2年,鹿妻耕地整理組合935町の編入,同3~15年頃までの同組合の開田の編入によって灌漑面積は4,900町と急増。第2次大戦後,山王海ダムの完成によって南部の末流地区が脱退,昭和31年には4,773町となる。用水施設の改修は,大正5年の取入口閘門と角落水利工の設置,大正6年の穴口中堤防のコンクリート築堤,昭和初年の上堰の拡張と幹線水路の分水による800町の開田と1,000町の旧田補水,さらに昭和29年の県営雫石川用排水改良事業,昭和35年に始まる農林省雫石川沿岸農業水利事業などがあり,いずれも地域農業の発展に大きな役割を果たした(鹿妻穴堰開発史)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7014123 |