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北上盆地
【きたかみぼんち】


北上川の上流・中流域に位置する縦谷盆地。南北約180km,幅15~20km。わが国最大級の盆地の1つ。東に古生界を主とする北上山地,西に第三系を主とする奥羽山脈が並び,北端は西から張り出す七時雨(ななしぐれ)火山地,南端は同じく西から張り出す磐井丘陵に接する。盆地の低位部を流れる北上川は,狐禅寺峡谷を通って仙台平野に出る。奥羽山脈沿いには,北から滝名川の八罫(はつけ)野(紫波(しわ)町),豊沢川・寒沢(さぶさわ)川の清水(きよみず)野(花巻市),豊沢川の日居城(ひじよう)野(花巻市),和賀川の後藤野(北上市),夏油(げとう)川の六原扇状地,胆沢(いさわ)川の胆沢扇状地などが並び,北上川本流はこのため著しく東に追いやられている。北上川流域は,初め日高見(ひたかみ)国と呼ばれてエゾの国としておのずから一独立国を形成していた。ヤマト系の文化が始まるのは,古墳時代に入ってからで,その遺跡は河岸段丘や自然堤防に数多く認められる。歴史時代のエゾ経営は,この北上盆地世界,胆沢の国の支配をめぐって繰り広げられ,延暦20年の胆沢城,同22年の志波城,弘仁4年ごろの徳丹城になって,盛岡付近までの経営を安定させた。平安初期のうちにこの地には,磐井・胆沢・江刺・和賀・稗貫(ひえぬき)・斯波の諸郡が置かれ,間もなくこれに岩手郡が加わる。このうち磐井を除く6郡が奥六郡として,北部陸奥国の中央地帯を形成。それは,安倍氏・清原氏という地元大豪族の支配をおこし,前九年・後三年の役を経て,平泉に藤原氏四代100年間の大政治を成立させる。北上川が結んだ奥六郡の当盆地がその基盤をなした。文治の平泉合戦の後,藤原氏の所領は鎌倉御家人の分領するところとなった。天正18年,豊臣秀吉は和賀・稗貫・斯波・閉伊の諸郡を南部氏に加増した。南部氏は,支配の拠点を岩手郡不来方に移し,北上川上流域は南部氏の盛岡藩のもとに開発を進めることになった。他方,中流の胆沢・江刺・磐井の諸郡は伊達氏の仙台藩の領するところとなり,当盆地は2つの政治領土に分割される。新しい領地は,盛岡藩にとっては豊かな,仙台藩にとっては貧しい生産地帯であった。しかし財政基盤確立のために開発に努めなければならないことは,両藩とも同じであった。天正3年に始まる越前堰の開削とそれに続く新田開発,天正19年に始まる桑折堰の開削と江刺平野の開発,慶長4年に始まる鹿妻堰の開削と雫石(しずくいし)川・北上川右岸の開発,寛文3年に築造が始まる大巻堰と紫波郡長岡通大巻村の開発,同年に開削が始まる滝名川用水と紫波郡の開発,寛文7年に始まる奥寺堰の開削と和賀郡村崎野の開発,天和2年に築造が始まる千貫石堤と六原扇状地の開発などは,その著しい例であった。南部氏と伊達氏の盆地および周辺地域の分断的な支配は,東西120kmに及ぶ藩境塚の築造や藩境警備のための集落の設置と相まって人々の交流を少なくし,言語や生活習慣にみられるような異なる文化圏の成立を促した。両藩を貫く北上川は,元和9年から寛永3年の大改修によって本格的な舟運を可能にし,盛岡城下の新山に始まり,盛岡藩では,郡山(日詰)・石鳥谷(いしどりや)・花巻・黒沢尻の諸川岸が,また仙台藩では跡呂井に始まり,黒石・木合・六日入・目呂木・蛇の鼻・高館・小島・柵ノ瀬・狐禅寺・薄衣・日形などが河港としてにぎわい,各所に藩有の御倉が設けられた。取り引きされた物資は,下り荷が米・大豆・生糸,上り荷が塩・塩魚・雑貨品などであった。舟運は明治に入って蒸気船が導入されるなど隆盛を極めたが,明治23年の日本鉄道(現国鉄東北本線)の開通によって急速に衰退した。近代における盆地の大きな変化の1つは,県の施策として米生産力の向上策が取り上げられ,米の単作化傾向が目立ってきたことである。明治36年,県知事は水田3万3,886町を整理して,6,080町の増歩地を得る計画を発表している。盆地における耕地整理事業としては,明治35年着工の胆沢郡南下幅事業(314町),同39年の西磐井郡山目事業(320町)などが知られるが,その本格化は大正期における関係法の改正,米価の高騰,米作技術の向上を背景にしている。大正中期の事業としては,江刺郡江刺事業(852町),稗貫郡巻堀事業(204町),大正末期以後の事業としては,鹿妻事業(旧田1,000町,開田700町),和賀中央事業(旧田2,460町,開田1,304町),江刺中央事業(旧田673町,開田70町),千貫石事業(1,752町),宮野目事業(旧田976町,開田306町)などが知られ,昭和24年の水田総面積は大正期の1.6倍に当たる9,998町に達する。米作中心の農業改良策は,その後の土地基盤整備事業に受け継がれ,米の生産過剰による減反政策の導入に至るまで順調に進展している。第2次大戦後,特筆される出来事の1つは,昭和22年9月12~16日のカスリーン台風,同23年9月15~16日のアイオン台風に伴う集中豪雨によって,盆地南端の一関市をはじめ,各地に甚大な被害が発生したことである。カスリーン台風による洪水は,狐禅寺峡谷入口の水位を15.6mに押し上げ,被害面積2万6,017町,死者・行方不明89名,流失家屋422戸,浸水家屋2万9,265戸,堤防決壊263か所,冠水耕地4万1,000余町,被害総額54億円,アイオン台風の被害は,死者・行方不明688名,流失家屋840戸,浸水家屋2万6,000戸,堤防決壊1,800か所,冠水耕地6万町,被害総額127億円であった。この被害は県全域のものであるが,その大部分は北上川筋のものであった。北上川の治水計画は,狐禅寺峡谷の流水量を毎秒6,300m(^3)とし,カスリーン台風時の流水量毎秒9,000m(^3)のうち2,700m(^3)を四十四田ダム(本流)・御所ダム(雫石川)・田瀬ダム(猿ケ石川)・湯田ダム(和賀川)・石淵ダム(胆沢川)の五大ダム,並びに盆地南端部の遊水池において調節することを主内容とするものである。この計画は,北上特定地域総合開発計画の一部に組み込まれ,土地改良や開拓など生産対策とともに進められてきた。事業は昭和39年の岩手県総合開発計画,同44年岩手県勢発展計画に引き継がれ,その内容も,当初の治水・利水から産業開発や生活の向上をはかるより広範な内容に変えられ,これによって盆地は新しい時代を迎えつつある。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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