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黒森神社
【くろもりじんじゃ】


宮古市山口にある神社。旧村社。祭神は須佐男命(すさのおのみこと)・大己貴命(おおなむちのみこと)・稲田姫命(いなだひめのみこと)の3柱。黒森山(310m)の中腹にあり,創建年代は未詳だが,社伝では坂上田村麻呂の創建という。また,垂仁天皇の皇子是津親王の陵墓説や南朝の長慶天皇御陵説もあり,一部で信じられてきた。建武元年銘の鉄鉢(県文化財)など伝世資料から見て,鎌倉期から南北朝期にかけて黒森権現社や別当寺・安泰寺など黒森山関係寺社の創建を推定できるが,それ以前から黒森山の峰々を跋渉して山霊や山神を祀る優婆塞達がおり,長く修験の霊場であった。また「南部封域志」には関八州の修験者が往来し当山を行場としていたこと,「篤焉家訓」には大峰山入峰に先駆けて当山で行をしたことなどが記されている。前記の鉄鉢で,「当山黒森 建武元年八月廿日道徳敬白」とある。南北朝期嘉慶年間には花立・燭台が当社に寄進された。花立・燭台ともに,「奉寄進閉伊郡黒森山常住嘉慶元丁卯八月一日金剛仏子宥澄・別当有克」とある(同前)。また,応安・応永・天文・天正・慶長などの棟札があり,閉伊郡内貴顕の信仰を集めていたことが知られる。南北朝期応安3年の棟札には,「当郡地頭南部光禄・南部伊予守信長」(県史2),室町初期応永11年の棟札には,「大檀那沙弥禅高,俗名南部大膳大夫源守行,当郷主山口館主小笠原肥後守保信」(地名辞書),戦国期の天文10年の棟札には,「奉造営閉伊郡黒森山権現」として,大檀那南部右馬允源安信,同左衛門督信高,旦那田鎖伊豆守政光,旦那小笠原備中守源盛清,同助三郎などの人名が記されている。さらに,「作者大仏之〈ママ〉相模 旦那源行康勝 小笠原左馬助文明十七〈乙巳〉十月日」と銘のある獅子頭も伝える。江戸期,藩主の祈祷所となった時期があり,例えば,承応2年には藩主の病気平癒のため湯立神事を行っている(雑書)。明治初年神仏分離により現社名に改称,同5年村社に列せられる。例祭は旧暦6月14日で,湯立および神子の託宣神事が行われる。なお神社に付属する黒森神楽は権現(獅子頭)を奉じて,三閉伊の沿岸地方を1~2か月(かつては霜月から春彼岸前後まで)巡業して歩くが,すでに江戸初期にはこの慣行があり,宝暦8年の「宮古黒森山獅子舞廻り方三閉伊村所附帳」には各村の神楽宿が詳細に記してある。また20頭の権現(獅子頭)を所蔵し,うち「隠居」(南北朝期~明治27年)分16頭が県文化財である。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7014464