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中尊寺
【ちゅうそんじ】


西磐井郡平泉町平泉にある寺院。天台宗東北大本山。山号は関山。もと衣川関の置かれた関山の寺であることによる。17か院からなる一山寺院(複合寺院)で,本坊は阿弥陀如来を本尊とし,各院はそれぞれの本尊を安置する。寺伝によると,嘉祥3年慈覚大師円仁が東北地方巡錫のおり開山して弘台寿院と号し,貞観元年清和天皇から中尊寺の寺号を賜ったという。さらに藤原清衡が長治2年堂塔建立に着手し,鳥羽院の御願寺となったと伝える。慈覚大師開山説は後世の勧請開山とも考えられ,当寺のはじまりは藤原清衡にある。ただ中尊寺は衣川関を承けて関山と称するように一種の「関寺」という性格を持つが,衣川関には付属寺院のようなものがあり,あるいは中尊寺はその旧関寺を承けた新関寺のようなものであったかもしれない。建武元年衆徒等申状案によると,清衡が初めに造営したのは,長治2年,釈迦・多宝両如来を安置した最初院で,嘉承2年に大長寿院,天仁元年金堂,三重塔3基,二階鐘楼,経蔵,皆金色堂を建立し,以降各院・社堂を建て,天治3年落慶供養を行ったことになっている。22年にわたる造営であった。平泉藤原氏滅亡直後に平泉の衆徒が注申した寺塔已下注文が「吾妻鏡」文治5年9月17日条に引載されている。同書には,「関山中尊寺は,寺塔四十余宇,禅坊三百余宇で,清衡が(奥)六郡を管領して最初に草創した寺である。白河の関から外浜にいたる二十日余の道すじに一町ごとに笠卒都婆を立て,その面には金色の阿弥陀像を図絵し,当国(陸奥国)の中心にあたる山の頂上に一基の塔を建てた。寺院の中央には左右に釈迦多宝の像を安置した多宝寺(建武元年申状の最初院のこと)があって,その中間に関路を開いて旅人往還の道とした。釈迦堂には百体の金色釈迦像を安置し(建武元年申状の金堂のこと),両界堂に両部の諸尊を安置した。二階大堂は大長寿院と号し,高さは五丈,本尊は三丈の金色阿弥陀像で,脇侍は九体丈六仏である。金色堂は四壁,内殿皆金色で,堂内の三壇は悉く螺鈿で,阿弥陀三尊,二天,六地蔵は定朝の作である。鎮守として南に日吉社,北に白山宮を勧請,このほか,宋本の一切経蔵,内外陣の荘厳,数宇の楼閣,注進にいとまあらず」とある。頼朝は鎌倉に帰還するや,中尊寺の大長寿院二階大堂を模して永福寺を建立した。鎌倉二階堂の地名はこれから出ている。清衡の中尊寺造営の趣意は天治3年(大治元年)3月24日の中尊寺供養願文(写本のみ2本あり,ともに国重文,嘉暦4年銘藤原輔方奥書本と北畠顕家筆写本)に示されている。自分は「東夷の遠酋」「俘囚の上頭」であり,自分の代に至って奥羽の戦乱がやみ,「垂拱寧息の三十余年」を享受している,「その報謝を憶うに修善にしかず」として,「ひとえに鎮護国家の為」であると述べているが,同時にこれまでの多くの「官軍夷虜」の死者の「冤霊を浄刹に導く」こと,「蛮夷」の地を「界内の仏土」,「諸仏摩頂の場」とする趣旨が盛り込まれており,この皆金色寺院を奥羽の人々の鎮魂にささげようとする清衡の悲願をうかがうことができる。これらの堂塔伽藍は建武4年の火災(康永元年鋳造梵鐘銘)でほとんど焼失し,当初の姿を保っているのは金色堂のみである。金色堂(国宝)は天治元年に上棟された(棟木銘)。当時の建築・漆芸・金工・木工の粋を尽した阿弥陀堂で,内陣の3基の須弥壇の下に藤原三代の遺体を納めた葬堂でもある。経蔵はもと瓦葺二階造りであったが,これも焼け,旧材により平屋に再建されたのが,現経蔵である。経蔵には清衡発願の紺紙金銀字交書一切経(中尊寺経,国宝)・宋版一切経・秀衡所願紺紙金字一切経(国宝)などが納められた。寺号中尊寺の由来については,「吾妻鏡」の記事に依拠して「白河関より外ケ浜迄の中央なるによりて山の頂に一基の塔を立て仏像を安置して中尊と」したことによるとする説(平泉雑記)がこれまで定説となっていたが,近年,「中尊」とは阿弥陀如来を指し,最も宏壮で中心的な伽藍である二階大堂の3丈あるいは4丈の大阿弥陀如来像を指したものであるとする説(中尊寺史稿)や,「中尊」とは「人中の尊」の意で,中尊寺建立の目的は「界内の仏土」を築き「諸仏摩頂の場」とすることであり(中尊寺供養願文),それは人類の依り所たる理想に基づくことであるという教義面からの説(多田厚隆中尊寺貫主)などが提唱されている。平泉藤原氏滅亡後,源頼朝は寺領を安堵し(吾妻鏡),幕府が中尊寺・毛越寺の「両寺別当」を任命していたものとみられ,理乗坊印鑁・権大僧都法印大和尚盛朝などの名が散見される。これら別当と一山の衆徒との間にはその支配や収益をめぐって,度々相論が起きている(文永元年および同9年関東下知状)。正応元年幕府は金色堂を修理(棟札),嘉元2年には経蔵を修理(棟札)し,堂塔の維持に努めているが,一方では地頭による寺領の侵害や供料供米の押領等が進み,正応元年関東下知状や嘉元三年衆徒等訴状には,領主葛西宗清との相論が記されている。鎌倉幕府が滅亡するや,中尊寺は陸奥国府と鎌倉奉行所に堂塔の修理助成を嘆願(建武元年衆徒等申状案),国司北畠顕家は闖入,狼藉,押領を禁ずる国宣を下している。建武4年中尊寺伽藍は火災にあい(梵鐘銘),金色堂と,伝によれば二階経蔵の下層を残して灰燼に帰した。この火災の原因は南北朝争乱の兵火とする説がある(県史)。室町期の中尊寺については史料が少なく不分明な点が多いが,巡礼札・参詣札・笹塔婆・納骨器(いずれも県有形民俗文化財)などが金色堂や経蔵に数多く奉納されており,信仰基盤の広がりを示している。天正19年,豊臣秀吉の奥州再仕置後領主となった伊達政宗より寺領を安堵された(仙岳院文書)。慶長3年秀吉の命令により,一切経2部が伏見城に運ばれ,中尊寺経として有名な紺紙金銀字交書一切経(国宝,当初約5,300巻)の大部分はその後高野山に納められ(義演准后日記),中尊寺にはわずか15巻を残すのみとなっている。寛文5年,幕府は諸宗寺院法度を制定,それまでどこにも属していなかった当寺は東叡山寛永寺の直末寺となった。この頃当寺の惣別当に当たる首長の職務は院主坊が当たっていたが,院主坊は何時の頃からか真言宗に改転し(安永風土記),当時院主は真言僧であった。この院主の真言宗をめぐり山内で抗争が起き,延宝8年藩主伊達綱村の裁断により院主良舜と衆徒8坊が流罪追放となり,院主坊の寺領,寺屋敷は没収され,このとき再興された別当職に宛行われた(仙岳院文書)。この別当職には仙台東照宮別当寺仙岳院亮栄が兼帯任命され,以後明治まで仙岳院住職が中尊寺別当を兼務した。別当は山内に止住せず,金色院住職など法弟を別当代として寺務代行させていた。明治4年仙岳院住職の兼帯を止め,現在は中尊寺別当職を「貫首」と称している。明治30年金色堂を国宝第1号に指定。昭和25年藤原三代の遺体学術調査。昭和37年から43年まで金色堂解体修理。昭和34年から43年まで14次にわたって伝金堂跡・三重池跡・伝多宝塔跡・小経蔵跡・大池跡などの発掘調査が行われ,白山社能楽堂西南の伝多宝塔跡は,径1m以上の巨石を柱礎とし柱間を14尺とした巨大建築の遺跡で,多宝塔ではなく,「吾妻鏡」文治5年の注文にある二階大堂跡かとみられるに至る。昭和54年当寺境内が国の特別史跡に指定された。所有の文化財は数多く,国宝には,金色堂および金色堂内具(華鬘など17点),経蔵堂螺鈿八角須弥壇,経蔵内具(螺鈿平塵案など5点),紺紙金字一切経2,739巻(内15巻金銀字交書経),国重文には,一字金輪仏頂坐像,金色堂壇上諸仏32体,仁安4年銘釈尊院五輪塔(わが国最古の在銘五輪塔),金銅釈迦如来坐像御正体など国指定文化財だけでも3,000点を超える。これら山内の寺宝は昭和30年竣工の讃衡蔵(宝物収蔵庫)に集められ保管されている。当寺の年中行事で最も重要でにぎわいをみせたのは陰暦卯月(4月)初午の白山社祭礼であった。白山社は当寺の北方鎮守で,南方鎮守の日吉山王社とともに古来崇敬され,慈覚大師が加賀白山妙理大権現を勧請したと伝える。祭日の14日前から別行に入り,午の日の当日には十一面供の秘法が修され,獅子舞の後,金堂前から社頭まで7歳の稚児が乗った神馬を中心とし,一山僧衆,田楽衆が加わる御一馬(おひとつうま)行列が行われ,神楽・田楽・式三番(故実式三番,国無形民俗文化財),能三番が奉納された。現在は御一馬行列と田楽は行われず,春の藤原祭りの5月4・5日に故実式三番と神事能を行っている。支院は妻帯世襲で代々血縁によって山内堂塔・寺宝・古例古法を護持してきた。17院の略歴は下記の通りである。 金色院 古くは竹下坊と号した。本尊大日如来。別当所金色堂(本尊阿弥陀如来)。江戸期延宝年間,勇仙の代に支院の中で唯一清僧に改転,貞享年間には一か寺扱いとなって東叡山寛永寺の直末となり,他の支院とは別格に扱われた。現在は中尊寺貫首の兼務が寺院規則で定められている。 大長寿院 西谷坊。本尊大日如来。別当所経蔵(本尊文殊菩薩)。「吾妻鏡」文治5年の注文に「二階大堂,大長寿院と号す。高五丈。本尊三丈金色弥陀像。脇士九体同丈六也。」とあり,山内で最大の伽藍が大長寿院二階大堂であった。大長寿院は経蔵別当職を世襲してきたが,初代経蔵別当職は自在房蓮光で,金銀字交書一切経書写を8年で遂げた功績により経蔵別当職に任ぜられ骨寺村を寄進された(経蔵文書)。経蔵別当としての大長寿院は山内で特別の地位を占めており,寛永21年1貫691文の寺領を給されたが(伊達忠宗黒印状,実質的には安堵),山内で寺領を有したのは大長寿院のほかは院主坊(2貫439文,後廃絶,惣別当領として5貫文に加増),竹下坊(金色院,1貫968文)のみである。享保8年,それまで連名署判の上位を占めていた大長寿院の座次連名の順序をめぐって一山衆徒と相論が起こり,翌年本寺東叡山の裁決により座次連名ともに年臈次第の事と決定された(仙岳院文書)。経蔵(国重文),螺鈿八角須弥壇・経蔵堂内具・紺紙金字一切経(国宝),最勝王経十界宝塔曼荼羅(10幀,国重文)・中尊寺供養願文(2本,国重文)など,中尊寺の指定文化財の大半を所有している。 常住院 南谷坊。本尊釈迦如来。別当所山王堂(本尊釈迦如来)。山内古院の1つで,北方鎮守白山宮と並ぶ中尊寺の南方鎮守日吉白山社の別当である。建武4年の火災後,金輪閣に安置されていた一字金輪仏頂坐像(国重文)は山王社に移されたが,現在は中尊寺ほか17院の所有となっている。 法泉院 小前沢坊。本尊聖観音。旧別当所白山宮(本尊聖観音)。寺伝では長元2年慈覚大師の法孫円祥阿闍梨の創建と伝える。白山宮は中尊寺の北方鎮守で,卯月初午の白山社神事祭礼は中尊寺年中行事の中で最も重要な儀式であった。嘉永2年白山宮本社と長床を焼失。同6年再興。この時長床を能舞台の造りとし,能楽殿(県文化財)とした。小前沢坊はもと小前沢村(前沢町)にあった。中尊寺山内への移転の時期は明らかではない。元禄10年法泉院の院号を下付,現在の庫裏は元禄4年の建造と伝えられ,現存する山内の坊舎では最も古く県文化財に指定されている。現在白山神社は,藩政時代に禰宜職を兼ねていた本山派修験周明院が神主となっている。 願成就院 中之坊。本尊聖観音。別当所峰薬師堂(本尊薬師如来)。中尊寺草創以来の古院の1つとみられ,建武元年衆徒等申状案に「願成就院薬師丈六」とある。寺伝では長元元年慈覚大師の法孫澄安律師の創建と伝える。峰薬師堂はもと峰山(峰ノ薬師堂山)といわれる所にあったが,度々野火にあったので元禄2年現在地に建て替えられた(仙岳院文書,棟札)。坊名は中之坊のほか,中坊,中野坊とも書かれている。本尊丈六阿弥陀如来坐像は国重文。堂の脇に平安期の石造宝塔(願成就院宝塔,国重文)がある。 瑠璃光院 永根坊。本尊阿弥陀如来。別当所薬師堂(本尊薬師如来)。寺伝では応和2年慈慶の草創と伝え,山内古院の中で最も古い開創伝説をもつ。瑠璃光院の田畑は多く,延享二年一山分限書上覚には年貢地田畑合わせて3貫692文,高1貫900文とあり,惣別当・金色院・大長寿院の3院に次ぎ,他の衆徒中の2倍強であった。享保8年座次連名次第相論(同9年裁決)までは,一山連署の順序は金色院・大長寿院に次いで3番目であった。大日如来坐像(国重文)がある。 釈尊院 上西谷坊。本尊釈迦如来。別当所釈迦堂(本尊釈迦如来)。山内古院の1つで,文永九年関東下知状に,「釈尊院灯油畠弐所」と見え,建武元年衆徒等申状案には,「釈尊院本尊同前(常住院と同じ釈迦三尊)皇帝御仏」とある。釈尊院の釈迦堂は本堂(金堂・大釈迦堂)に対して小釈迦堂ともいわれる。建武4年の火災以来釈尊院小釈迦堂の記録はなく,現在の釈迦堂は享保4年の再建である(棟札)。坊名は江戸前期には重城坊を称し,中尊寺奥の院月山社別当を兼ねていたが,元和元年上西谷に転住し延宝8年院主追放事件の頃から上西谷坊を称している。上西谷坊の墓地にある五輪塔(国重文)はわが国在銘最古(仁安4年)の五輪塔である。 金剛院 池辺坊。本尊大日如来。別当所大日堂(本尊大日如来)。山内古院の1つで,寺伝では長保5年慈覚大師の法孫孝澄阿闍梨が開創したという。別当所大日堂の本尊は金剛界大日如来(国重文)で,建武元年衆徒等申状案に,「金剛王院 金剛界大日」とあるものとみられる。池辺坊は元禄10年金剛院の院号を許可された。 薬樹王院 北本坊。本尊薬師如来。別当所稲荷堂(本尊聖観音)。山内古院の1つで,建武元年衆徒等申状案に,「薬樹王院 薬師并観音三十三反」と見える。「安永風土記書出」には,北本坊はもと鉢森坊といい,元和の頃まで胆沢郡中畑村に居住していたが,北本坊の院跡へ移転した,とある。中尊寺鬼門鎮守白虎山(白狐山とも)稲荷宮の別当で,史料に善法院鉢森坊とも月輪坊とも散見されるが,明和元年に往古の通り薬樹王院北本坊と改めたという(明和2年書出)。 観音院 観智坊。本尊阿弥陀如来。別当所千手堂(本尊千手観音)。山内古院の1つで,建武元年衆徒等申状案に千手院の名が見える。建武4年の火災で焼失,廃坊になっていたものを,近世初頭に観音院として坊跡を再興した。現在の千手堂は安永3年建造,本尊千手観音像は国重文に指定されている。 積善院 観泉坊。本尊阿弥陀如来。別当所地蔵堂(本尊地蔵菩薩)。寺伝では開基は学円あるいは学雄で藤原氏滅亡とともに廃坊になり,その後興廃をくり返し,江戸期初めに鏡意が再興した。関山の北谷にあり,古くは北谷坊と称した。 円乗院 桜本坊。本尊阿弥陀如来。別当所阿弥陀堂(本尊阿弥陀如来)。桜本坊は金峰山の別当でもある。金峰山の名は建武元年衆徒等申状案に見える。桜本坊は寺伝では長久4年慈覚大師の法孫清雅阿闍梨の創建と伝える。しかし寛永18年の境内絵図にはなく,その再興は慶安・承応の頃で,延宝4年東叡山より円乗院の院号を賜ったという(仙岳院文書)。中尊寺神事能においては代々仕手方を勤めている。阿弥陀堂は寛保3年の建立(棟札)。金銅釈迦如来像御正体(国重文)がある。 大徳院 別所坊。本尊阿弥陀如来。別当所八幡堂(本尊八幡神像)。八幡(宮)は建武元年衆徒等申状案に見えるが,別所(坊)は寛永18年山内絵図が初見とされる。元禄頃までは福勝坊を称していた。元禄10年大徳院の院号を下付された。 地蔵院 東谷坊。本尊阿弥陀如来。別当所愛宕堂(弁慶堂,本尊勝軍地蔵)。「東谷峯世代」によると,初代は天台座主仁源の弟子源広で永久元年に下向し,大教王院別当になったという。大教王院は清衡以来の堂塔として建武四年衆徒等申状案に「大教王院 胎金両部諸尊皆金色木像」とある。寛永18年山内絵図には「東谷(坊)」と「地蔵院(愛宕堂跡か)」とが記されているが,寛文の頃は「東禅坊」と見え,元禄12年の両山衆徒院号改帳には「円智院東谷坊」とある。現在の愛宕堂(弁慶堂)は文政10年この地方随一の名工小野寺源太夫の建築で(棟札),伝元弘2年佐貫景房奉納の勝軍地蔵を本尊としているが,もと山下にあった弁慶堂の弁慶像や宝物を合祀してきたため,愛宕堂は弁慶堂と通称されるようになった。孔雀文磬(国宝),唐草文蒔絵大壇・千手観音御正体・椿文彫木彩漆笈(国重文)のほか,弁慶の墓と伝える石塔がある。 利生院 歓喜坊。本尊阿弥陀如来。別当所弁財天堂(本尊弁財天)。寺伝によると,寛徳2年慈覚大師の法孫連意の開創と伝えるが,江戸期までの事跡は不明で,その頃は山上は坊跡のみで下衣川村に居住していたものとみられ,「安永風土記書出」は意北(意卜とも,寛文6年寂)を初代としている。弁財天堂はもと大池の中島にあったもので,現在は金色堂南側にある。 真珠院 大林坊。本尊阿弥陀如来。別当所大日堂(本尊大日如来)。系譜に4代覚仁(寛平2年寂)大日堂別当開祖とあるが,大林坊の初見は文明3年天台大師講請状である。元禄10年院号下付。現在の大日堂は享和2年の再建である。 円教院 吉祥坊。本尊阿弥陀如来。旧別当所弥勒堂。「安永風土記書出」に往古下衣川村に居住していたとあり,江戸期初め頃は,上西谷坊や池辺坊と同様,山上の坊跡を離れて耕地のある衣川村に居住し神事祭礼の節には帰山,出仕したものと考えられている。元禄10年円教院の院号下付。別当所弥勒堂は現在なく,旧跡も不明である。




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「角川日本地名大辞典」
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