二戸
【にのへ】

旧国名:陸奥
(中世)南北朝期から見える広域地名。糠部(ぬかのぶ)郡のうち。馬淵(まべち)川に流入する十文字川および安比(あつぴ)川の流域,金田一・福岡を中心とする現在の二戸市域はほぼ全域,中世における二戸の範囲内に入ると想定される。一戸との境は浪打峠。安比川上流の浄法寺町付近は一戸に入るとみられる。鎌倉期,二戸を含む糠部郡全域の地頭職は鎌倉北条氏の掌中にあった。北条氏は糠部の所領管理のために,工藤・横溝・浅野・大瀬・合田・南部など多くの代官を派遣した。二戸にも代官が派遣されたものとみられる。鎌倉幕府滅亡後の南北朝~室町期にかけて,これらの代官の一員から身を興し糠部郡全域の覇者となったのは八戸南部氏,ついで三戸の南部氏であった。二戸もまた南部氏の支配下に属すようになった。中世の糠部郡は馬産地として天下に聞こえた。室町期の「永正五年馬焼印図」によれば,「二ノ部(戸)七箇村」の牧場から京進された馬には両印雀ならびに二文字の烙印が押されていたという。この印を押した二戸の馬を,「一天下の人」がこぞって賞翫(称賛)したという。二戸のうちでも「あひかび」牧(別称佐々木ノ部)の馬はことにすぐれて,本領主佐々木氏の紋,四ツ目結の烙印を付されていたという(古今要覧稿)。佐々木氏は「遠野南部文書」建武元年12月7日陸奥国宣に見える佐々木五郎泰綱の後裔か。横溝孫二郎入道子息亀一丸・同六郎子息虎熊丸を召進して陸奥国府より賞された佐々木泰綱の本拠地は,二戸付近にあったものとみられる。米沢(まいさわ)の佐々木氏は浄法寺畠山氏とともに源義経捜索のために派遣され土着した家柄と伝える(邦内郷村志)。盛岡藩の「深秘抄」(奥南旧指録)には,「甲州御譜代」の筆頭に三上・桜庭の両氏を挙げ,「本国近江宇多源氏佐々木庶流」なりとして,その本来の紋所を四ツ目結としている。これらの所伝をそのまま信ずることはできないが,佐々木氏が鎌倉期から存在していたことは確実とみられる。恐らくは,北条氏の代官として二戸に入部した人々の一員だったのではないか。佐々木氏が南部氏の傘下に属すようになったのは,南北朝~室町期のことと考えられる。室町後期の永正5年ころにおいてさえも,「佐々木ノ部(戸)」の地名が流布し,四ツ目結の家紋が烙印として用いられるなど,佐々木氏の名声はそれなりに維持されていたことが知られる。しかし同時に,佐々木氏を「あひかび牧の本領主」と記し,あるいはまた「不知行」とも記すことからも知られるように,佐々木氏の支配が断絶の徴候を示していたことにも注意しなければならない。佐々木氏にかわって,九戸政実が鹿角方面の戦功により二戸の地を給されて,九戸城(白鳥城・宮野城,のちの福岡城)を築き,九戸長興寺より本拠地を移したのは永禄11~12年ごろと伝える。あるいはまた,政実の4代前の光政の明応年間にはすでに九戸築城のことがあったともされる。九戸氏の統治は天正19年九戸落城をもって終わりを告げた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7015694 |