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平和街道
【へいわかいどう】


和賀郡黒沢尻町(現北上市)と秋田県平鹿郡横手町(現横手市)を結ぶ街道。現在は国道107号の一部として国鉄北上線に沿って走る。平鹿・和賀両郡の頭文字を取って平和街道と命名。黒沢尻駅を基点に和賀川左岸(北岸)を西に進み,江釣子宿―藤根野中―横川目下村―土場―杉名畑―川尻―野々宿を経て横手駅に至る16里29町で,県内分は11里25町7間(約44km)。明治15年10月秋田県側の横手街道(のち平和街道と称す)が開通し,県境の巣郷で開通式を行うが本県側は和賀・湯田両町境の当楽(あてらく)峡など峻険な狭窄部が多く,開削が難航したため明治20年開通した。奥羽横断道路として緊要なばかりでなく西和賀諸鉱山の開発を促進させ,明治23年東北本線が開通すると車馬の往来が激しくなり,県道改修案が同年県議会に提案されるに及び,本県でも平和街道と呼ぶようになった。このルートは古代から出羽国と陸奥国を結ぶ重要な街道の1つで,安倍頼時の五男黒沢尻五郎正任が康平5年に源頼義の軍勢に追われて黒沢尻柵から出羽国に落ち延びたのもこの和賀川沿いの道であった。平泉藤原時代の道は和賀川右岸(南岸)を西進したと考えられ,岩崎―煤孫(すすまご)―山口―和賀仙人峠―川尻―越中畑―白木峠を越えて秋田に通じていたようである(義経記など)。和賀川北岸の道は黒沢尻川岸に南部藩の御蔵ができてから北鬼柳~江釣子宿までを黒沢尻御蔵用道,それ以西を瀬端道と呼んだ(江釣子村史)。街道上には明治38年和賀仙人~黒沢尻間和賀軽便鉄道が開通,大正11年まで営業。大正15年4月江釣子村の高橋長蔵が平和乗合自動車商会を設立し,黒沢尻~横川目間乗合自動車を運行させた。大正8年道路法の公布により県道黒沢尻横手線と改称,昭和28年5月2級国道大船渡本荘線に昇格。昭和39年和賀川上流に湯田ダム(錦秋湖)が完成し,路線も大幅に切り替えられ,同40年3月には国道107号となった。冬期間は豪雪のため途絶することもあったが,同45年錦秋湖で国体漕艇競技が開催されたのを契機に道路整備が進み,さらに東北自動車道・東北新幹線への連絡路として交通量が激増している。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7016027