陸前高田市
【りくぜんたかたし】

(近代)昭和30年~現在の自治体名。広田湾北岸,広田半島に広がり,気仙川の下流域および同川支流の矢作(やはぎ)川流域に位置する。高田町・気仙町・広田町と竹駒・小友・米崎・矢作・横田の5か村が合併して成立。合併各町村名を継承した8町を編成。地名は,当市の中心集落である高田町に由来する。世帯数・人口は,昭和30年5,526・3万4,175,同40年6,324・3万4,240,同50年7,073・3万1,716,同57年7,514・3万1,364。江戸期から通年的出稼者が多く「気仙大工・左官」の名で知られている。昭和35年当時の出稼者は,人口の6.8%に当たる2,331人で,うち大工1,236人・左官661人・漁夫250人。出稼先は,北海道55.6%・東北18.4%・関東21.9%・中部3.2%・近畿0.6%。同45年当時の出稼者は,人口の7.9%に当たる2,609人。昭和30年代後半から人口が減少傾向となり,市制施行の昭和30年と比べ,同45年2,525人,同55年3,477人が減少(市勢要覧)。昭和39年の三陸地域開発計画では,機械・化学(石油)などの重化学工業基地としての大船渡市と,大規模水産基地の気仙沼市の中間に当たる当市は,商業文化などの第3次産業の地域センターとして機能すべきものと構想されている。同計画の工業配置構想では,1級国道沿い内陸用地に,木材・機械・酪農製品・セメント2次加工などを配し,将来は小友地区を工業用地として開発するとある。なお,広田湾深奥部の埋立と工業港整備も遠い将来の計画として記されている。昭和45年の新総合開発基本計画では,高度成長を前提として,広田湾の大規模開発がより具体的に提起され,当市と大船渡市・気仙沼市の三市を核とする三陸臨海工業都市の方向が目ざされた。その後,オイルショックを経て低成長時代に入ったが,当市の開発計画は,広田湾の埋め立て港湾建設を基本としている点で一貫している。この一連の開発計画については,漁業振興とともに自然環境保全の見地からの批判的意見がある。昭和42年以降,縫製・弱電関係・精密機械関係の工場が誘致されているものの,女子労働力型工業が主で,出稼ぎと人口減少の課題解決には程遠い状況である。昭和38年有料道路として開通した通岡峠経由の道路は,同48年国道45号となる。同57年高田バイパスの気仙町側始点から高田松原間部分が開通,同58年全線開通。昭和38年NHK陸前高田テレビ局開局。同年陸前高田電報電話局開局。昭和33年高田町字館の沖に市役所新築移転。同34年気仙町字川口に市立博物館設置(同54年高田町字砂畑に新築移転)。昭和39年高田町字下和野の旧高田中学校校舎内に市立図書館設置(同53年字砂畑に新築移転)。同40年字館の沖に市民会館落成。同51年市民体育館,同52年中央公民館が字砂畑に新築開館。昭和35~43年の県営小友浦干拓事業により24haの農地造成。昭和46年から現在まで,県営気仙川土地改良事業(氷上山麓灌漑排水路)の工事が行われた。昭和35年のチリ地震津波は,気仙町湊・長部地区,米崎町沼田・脇の沢・勝木田地区,小友町三日市地区が主に被災し,死者8人,罹災者3,376人,家屋流失全壊176戸のほか,のり網・かき筏などに大きな被害を受けた。昭和36~42年にかけて,沿岸部に防潮堤などを建設。同43年の十勝沖地震の際には,沿岸定置網および養殖漁業施設に被害をうけた。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7016452 |





