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上街道
【かみかいどう】


上海道とも書く(安永風土記)。古代末期多賀城から北,胆沢(いさわ)城に至る街道名。駅路が通じる官道の山寄りに開けた道で,松山道と呼ばれたものの後世的呼称であろう。近世,仙台から岩手県に通じる街道のうち現在の加美郡中新田(なかにいだ)町―玉造(たまつくり)郡岩出山―真山―栗原郡一迫(いちはさま)町真坂―栗駒町岩ケ崎―岩手県一関―水沢市方面に至る街道と考えられている。「安永風土記」栗原郡三迫赤児(あかご)村ならびに鳥沢村の項に「上海道 南は当郡三迫岩ケ崎町,北は岩井郡西岩井一ノ関町への道」,同郡三迫中野村の項に「上海道 南は当郡二迫稲屋敷村,北は当郡三迫岩ケ崎町への道」とあり,二迫稲屋敷村の項に「南は当郡一迫真坂町,北は当郡三迫岩ケ崎町への道」,さらに一迫真坂村の項には「三迫岩ケ崎町への道」,玉造郡上真山村の項には単に「岩出山町より壱町真坂町への海道」とのみ記載されており,これだけでは岩出山~真山~真坂~稲屋敷間を上街道とするのか,あるいはその単なる延長とするのかはっきりしない。これは,江戸期,それぞれの地区でそういわれていたものを個別に数えたものであろう。現在も南部は県道岩出山岩ケ崎線と重なったり,並行または交差しながら部分的には昔の面影をとどめている。街道筋には多くの史跡や伝説が残っており,たとえば玉造郡多加波々(たかはば)城跡(岩出山町葛岡),古駅とされる黒岩口(栗駒町岩ケ崎),前九年の役の陣営跡営岡(たむろがおか)(栗駒町)などはすべてこの道沿いにある。江戸期に岩手県一関と栗原郡岩ケ崎間の道が新たに整備された。元禄2年5月14日,松尾芭蕉が曽良とともに歩いたのはこの上街道である(曽良随行日記)。元禄12年の絵図によれば一里塚も築かれていた(宮城県図書館蔵)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
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