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津久毛橋
【つくもばし】


津久裳橋(宮城県史30)・江浦藻橋(封内風土記・奥羽観蹟聞老志)・江浦草橋(安永風土記)とも書く。平安期から江戸期に見える橋名。栗原郡に属す。「安永風土記」三迫(さんのはさま)平形村の橋の項に「江浦草橋 長六間 幅二間半」とある。現在のは三迫川は南部丘陵沿いを流れており,古橋は北部丘陵沿いの源太郎川に架かる小橋のあるあたり,金成(かんなり)町津久毛字平形の地にあったと思われる。名前の由来は文治年間古戦場で城の濠が深く士卒大いに苦労した時,江浦藻(淡水産の水草)を投げ入れて城を攻めたところから江浦藻と命名されたとある(奥羽観蹟聞老志・封内風土記・安永風土記等)。また一説にはアイヌ語の転化ともいわれている(金成町史)。しかし津久毛の地名は文治5年の平泉合戦以前にすでにあった。すなわち「吾妻鏡」には源頼朝が平泉攻めに際し文治5年8月21日「二品(源頼朝)松山道を経て津久毛橋に到り給ふ」とあり,この時梶原平次景高が「陸奥の勢は御方に津久毛橋渡して懸ん泰衡か頸」と詠んだとある。また南北朝期には奥州南朝軍北畠顕信,葛西清貞と北朝軍石塔義房との間に三迫(さんのはさま)の合戦と称される激戦があったが,この時北畠側の三迫川北岸丘陵上に築かれた城館の中に「津久裳橋城」のあったことが「鬼柳文書」康永元年10月8日状,「岡本文書」康永元年11月2日状によってわかる。津久毛橋は地名にもなっている。古戦場としての津久毛橋は歌枕としても伝えられたと思われ,元禄2年松尾芭蕉の「おくのほそ道」の旅に同行した曽良の「随行日記」の5月14日のくだりには「岩ケ崎より金成へ行く中程につくも橋有り」とある。立ち寄りはしなかったが,芭蕉の頭の中に歌枕津久毛橋があったことがわかる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7018370