長世保
【ながせのほ】

旧国名:陸奥
(古代~中世)平安末期~戦国期に見える保名。北・東は鳴瀬川,南は品井沼の低地,西は丘陵地。現在の志田郡松山町・鹿島台町および遠田(とおだ)郡南郷町の西部地域と考えられる。もとは鳴瀬川西岸地域であったが近世初頭に流路が変わり保内の木間塚(きまづか)村は志田郡と遠田郡に二分された。鳴瀬川もこの長瀬保の保名から出たともされる。「吾妻鏡」建久元年10月5日条,源頼朝が陸奥国地頭所務を定めた記事の中に,長世保などに「国司厩佃(うまやつくだ)」が置かれていたことが見え,これが初見。頼朝の平泉合戦後,長世保は常陸国の御家人藤原念西朝宗(伊達氏の遠祖)に与えられ,長子の伊佐大進為宗が嗣いだ。同時に伊達郡を嗣いだ次子為重は伊達郡に移住して伊達氏を名乗る。承元3年3月29日付の関東御教書は伊佐大進(為宗)にあてて「陸奥国所知の長世保内荒野,地頭沙汰として早く開発せしめ名田たるべし」と令している(高洲文書/鎌遺1785)。同様の荒野開発指示は建暦2年12月3日付の関東御教書案(高洲文書/鎌遺1955)にも見える。保地頭伊佐氏の下に村々には村地頭がおり,承久2年6月16日には山鹿三郎遠綱が木間塚村地頭職に補せられた(高洲文書/鎌遺2615)。遠綱ははじめ遠田郡地頭であったが和田義盛の乱に加担して郡地頭職を没収されている。また長於(尾)郷や弘永(広長)郷舟越村は武蔵国品川郷の御家人紀姓品川清実に与えられていた(田代文書)。鎌倉末期には長世保千石郷には千石彦三郎がおり(金沢称名寺文庫文書),大迫郷は南北朝期の至徳3年7月12日石橋棟義により相馬治部少輔胤頼に預けられている(相馬文書)。永正11年の「余目記録」には南北朝期に「長世保長尾郷八ひろくき」「長世保三十番神」の記事があってかなりの村形成が進んでいた。しかし伊達氏の「天文段銭古帳」では同地域には松山荘の呼称が成立し遠藤氏の所領になっており,その上に伊達氏の高権支配がすでに確立している。なお鎌倉末期の供養碑(板碑)が長尾・須摩屋・千石・次橋(つぎはし)に多く残っている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7018562 |