宮床
【みやとこ】

旧国名:陸奥
奥羽山脈の一部をなす船形山から東へ向かって支脈がのび,七北田(ななきた)丘陵・黒川丘陵・松島丘陵などと呼ばれる高原性丘陵を形成,この丘陵上に黒川郡の象徴ともいうべき七ツ森(七巍峰)の孤立峰が特異な姿を見せている。主峰の笹倉山(大森山)は船形山寄りに孤立した形であるが,これ以外の遂倉(とがくら)山・鎌倉山・蜂倉山(鉢倉山)・大倉山・撫倉山・松倉山の山々はいずれも300m前後の標高で,約3kmの間に密集し,相抱くようにして並び立ち,「人ならばはらからなれや並み立てる七ツ森てふ山のすがたは」の古歌がある。このうち,撫倉山・松倉山から南方で笹倉山をも含む地域が宮床である。笹倉山の南斜面の沢水を集めた宮床川が地域のほぼ中央を北流し,宮床の町並みが広がる付近から広い迫を形成,富谷(とみや)町一ノ関方面を経て,同町三ノ関で竹林川に合流する。古代にはこれら河川の流域が新田郷と呼ばれて黒川郡東部の白川郷に対し,7世紀から8世紀に開発が営まれた地域とされている。中世にも新田村の名は残るが,それとは別に宮床川・竹林川流域は,黒川郡中迫と呼ばれるようになり,一ノ堰・二ノ堰などが設けられて開発が進行した。この地には古刹信楽寺があり,地名の由来もこの寺の足もと(宮床)の意味であるとされる(黒川郡誌)。寺伝では天長元年慈覚大師の開基というが,記録や遺跡から鎌倉末期から南北朝期に完成された中世寺院と見るべきで,最初天台宗で,のちに真言宗に改宗している。「大和町史」によると,古代以来の七ツ森信仰(神体山=磐座信仰)に山岳修験の信仰が結びつき,当寺はその元締め,ないし別当寺のようなものとして発展したと推測されている。なお信楽寺に関連して北条時頼の回国伝説が伝えられている。さらに当地の鶴峰八幡神社は「黒川郡・宮城郡惣鎮守古代一の宮」と称され,近世に至るまで地域信仰の中心をなした。ここに伝えられた田遊び儀式の中には,中世以来の農耕予祝儀礼の伝統が考えられており,ここにも七ツ森信仰との関連がたどられる。室町・戦国期にはこの地も黒川氏の支配に属し,その臣鴇田氏が宇和多手城に住んだといわれている。
【宮床(中世)】 戦国期に見える村名。
【宮床村(近世)】 江戸期~明治22年の村名。
【宮床村(近代)】 明治22年~昭和30年の黒川郡の自治体名。
【宮床(近代)】 明治22年~現在の大字名。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7019301 |





