角川日本地名大辞典 東北地方 秋田県 30 大町【おおまち】 旧国名:出羽 (近世~近代)江戸期~現在の町名。久保田大町,秋田大町ともいった。江戸期は出羽国秋田郡のうち。秋田藩領。久保田城下町の1つ。1~3丁目がある。成立は慶長12年,城下町の外町(とまち)で最も早くから発展した。慶長年中に大町物といわれる絹織物・木綿・古手(古着)・麻糸・小間物・絹糸など繊維製品の家督専業権を得,この特権の代わりに運上として伝馬・歩夫(かち)の提供・取締りを命じられていた(市史)。延宝元年には家督運上として両夫役に替えて駄賃銭と賃金をもって上納するよう要求されるようになった。同6年には1丁目だけに蝋燭の脇売り禁止という家督商品の追加が認められた(御町御用留書)。同7年には所々に脇売りが出て家督権も侵害されたため1~3丁目ともに取締りを願い出ている(羽生氏資料)。藩はその対策として文政11年,嘉永3年の2度にわたって脇売り禁止をふれた(上肴町記録)が実効は乏しかった。3丁目では便法として大町以外の本家町人が町内に借家することによって家督商品の販売が認められていたという記録もある(大町三丁目記録)。寛文7年の家督についての「定」によると質屋の存在がみえるが,質屋が天和4年に家督権侵害を企て反物類を除く古手類の商いを実現し,家督の独占権は次第に低落した。1丁目にはたばこ店があったが慶安2年1月22日,本町5丁目に移管された。早くから旅人宿が発展し,寛永6年通町3か丁とともに大町各丁は2階建てが命じられた。同8年,堀川普請の人足の割当て(4間に付,人足1人宛の計算)で,1丁目に32人,2丁目に35.5人が割り当てられた(政景日記)。寛文3年の1丁目の間数41.5・家数30,2丁目の間数40・家数29,3丁目の間数36・家数31(外町屋敷間数絵図)。同6年には1丁目川端の水汲場破損の補修費に,1・2丁目はそれぞれ銀22匁の最高額を割り当てられている(上肴町記録)。元禄元年3丁目から出火,920戸を消失。同4年各丁に1人の庄屋を置くことが義務づけられた。正徳4年の大火で2丁目が焼失,さらに享保15年には1丁目2,034軒,2丁目1,110軒が焼失した。延宝2年に2丁目と内町を結ぶ二丁目橋が落成(伊頭園茶話)。3丁目の家屋敷構成は寛文3年,本家31,享保16年同32,天明3年同34,元治2年同29・借家29・長屋者8と変化し(大町三丁目記録),長屋層の存在は天保3年以前からあり,幕末期には借家層とともにその増加が目立つ。その多くは職人および仲買人・日雇いなど生活不安定な階層と推定される。3丁目は金銀両替の特権を持っており,元禄9年,秋田銀との引換えを始めていた。3丁目東側にあった金木(かなき)屋呉服店は津軽の大津屋の出店として店の規模も手代の数ともに久保田町第1であったが,天明の飢饉前後に店仕舞いをしたという(伊頭園茶話)。安政2年には山新木綿として地織り木綿の育成に努めた山中新十郎の織座が3丁目で始められた。明治4年から秋田町の町名。同11年南秋田郡に所属。同22年秋田市の町名となる。同18年市街に区分され1丁目家数59戸,2丁目62戸,3丁目41戸,翌19年の俵屋火事により3か丁は全焼。同年の戸長調べでは大町・川反・上下通町・茶町・上下亀ノ丁・大工町など17町の戸長役場が1丁目にあった。明治9年,3丁目に秋田警察出張所が移転,同26年秋田警察署を開署。同15年「秋田日報」が1丁目で発刊され,同22年「秋田魁新報」となる。同15年「秋田日日新聞」が2丁目で発刊され,同32~42年まで2丁目で「秋田公論」,その後身の日刊紙「秋田時事新報」が大正9年まで刊行され,後者は茶町に発行所が移転。明治29年秋田銀行が3丁目,同31年秋田農工銀行が2丁目に設立。大正14年3丁目の山新跡に山口銀行,同15年同じく3丁目に秋田商工会議所が建てられた。明治41年には辻合資会社が2丁目に創立。物品販売・金融を業とする資本金10万円の当時としては大企業であった。同43年には合名会社風間呉服店が1丁目に設立。大正13年の「秋田市統計一覧」によれば10名以上の従業員を雇用する企業として秋田魁新報工場(41名)をあげている。住居表示実施により昭和40年川反1~4丁目・川反上5丁目・川反下5丁目・上肴町・下肴町・上亀ノ丁・下亀ノ丁・上米町1~2丁目・下米町1~2丁目・茶町菊ノ丁・茶町扇ノ丁・茶町梅ノ丁・田中町・柳町・豊島町・八日町・本町4~6丁目・横町・船大工町・十人衆町・鉄砲町の全部と新大工町・上通町・中通町・大工町・四十間堀川反町・四十間堀町・上鍛冶町・誓願寺門前町・寺町の各一部を合わせ,現行の大町1~6丁目となる。★★ KADOKAWA「角川日本地名大辞典」JLogosID : 7020243