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北野神社
【きたのじんじゃ】


南秋田郡天王町上出戸(かみでと)鎮座。祭神は菅原道真公。「北野天神」とも呼び,近世にはその称が一般的で「六郡祭事記」にも3月25日に「北野天神祭」と記し,昭和初年の「秋田の土と人」でも「北野天神」と記している。ただし京都の北野天満宮を勧請したのではなく,木口因幡という者が菅公の衣の端と石像をもたらして御衣を土中に埋め,社殿を建てたのがはじめという。「秋田風土記」では天延年間,「真澄遊覧記」では延文という。その子孫は文化の頃は木口助三郎であったが,のち菊地氏を称している。近世においては,寛文7年佐竹義処がここで猟をし,1発で2羽の白鳥を獲たので神への誓いにより社殿を修築したという。「秋田風土記」には「奉再興出羽国秋田北野山天神一宇大檀那源義処(花押)」という棟札の写が載っている。「結構美麗彫刻精巧,力士像は活けるがごとし」と評される(秋田の土と人)。文化元年8月15日,宮参りの乳児を背負った2人の女の天神参りと同行した真澄は,「筑紫の神をあがめるのだからお恵みに差はあるまい」と記し,北野一帯は昔野馬が多かったとも記している。牧の駒1,000匹・キツネ1,000匹・オオカミ1,000匹が神の使いだとの伝えもある(秋田の土と人)。「六郡祭事記」は,別当は修験弥勒院・神職は浜田氏で,社の後ろは海,前は広野で北野といい,城の北西4里,参詣はことに盛んで道路は平砂なので馬で駆け往来の遅速を試すようなことが行われると描写している。益戸滄洲・吉川五明など城下久保田の文人も訪れ詠草を残している。近くには男鹿脇本にも安東氏の鎮守菅原神社がある。なお八橋(やばせ)の天神は城下の子供の書と学問の神として信仰されてきたが,総社境内・箱岡明神などを経て延享に現在地に移されたといい,これも北野では遠すぎるという連歌師里村玄祥の勧めにより,北野から近くに勧請してきたものだという(秋田の土と人)。義処再興の由緒もあってか,5月3日には,御手洗池の菖蒲を藩主の御枕下用に献上するのが恒例であった。明治の初め村社となり,現在の例祭は4月24日・25日である。




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「角川日本地名大辞典」
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