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小阿仁村
【こあにむら】


旧国名:出羽

(中世)戦国期に見える村名。天正19年正月17日豊臣秀吉が秋田実季の当知行を安堵した朱印状写に,「石坂村・小阿仁村」253石余とある(秋田家文書)。これが唯一の史料。従来,「秋田県史」などでは「北阿仁村」と誤読,郷土誌ではこれをうけて現在地未詳であるが阿仁川北岸の大野台地の村かなどと推測してきた。しかし原文書で「小阿仁村」と訂正。村名は近世秋田藩政下に継承されないが,小阿仁川流域の村であり,上記朱印状写には小阿仁川下流域の村々がほとんど記載されているのに,堂川(どうがわ)以南の上流部の村々は1村も見えないので,この地域に存在した村と推定。山間部ながら,川沿いを縦走し,西南方笠森峠越えに八郎潟東岸五十目(ごじようのめ)に至る五十目街道は,中世には出羽国秋田郡と陸奥国比内郡を連絡する要路として機能し,天正期には阿仁地方の固めとして秋田氏から抜擢された浅利旧臣嘉成三七が居館を構えていた。居館は当初は沖田表(おきたおもて)の独活平(うどひら)館,次いで北方1里の小沢田(こさわだ)の七倉(ななくら)館に移るといい,付近には城郭の一角をなす椎(しい)館などの館址もある。9世紀の高倉長者の伝説を伝え,七倉山中腹の天満宮は応永2年の再興といい,嘉成氏(加成氏)が浅利氏家臣の頃は陸奥国管内であり,秋田氏の配下に属してから出羽国秋田郡および一部は同国檜山(ひやま)郡に編入となった経過がある。文禄・慶長の「秋田家分限帳」で,以前からの知行地を秋田家から保証された給人嘉成三七の分192石余というのが,小阿仁村の村高ではなかったかとみられる。近世秋田藩政下では,新田と豊富な山林の開発および阿仁鉱山維持のための吉田街道整備などの要因により,堂川・杉花(すぎばな)・小沢田・福館・五反沢・沖田面(おきたおもて)・大林・南沢・仏社(ぶつしや)の寄郷9か村に分村される。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7020915