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総社神社
【そうしゃじんじゃ】


秋田市川尻に鎮座。祭神は天照大神・豊受(とようけの)大神ほか3柱。城内の八幡秋田神社,八橋(やばせ)の日吉八幡神社と並ぶ古くからの久保田城下の大鎮守社。社伝では神亀元年にまつられたというが,中世神明山・伊勢山と称した千秋(せんしゆう)公園にまつられていたことから,中世の神明社伝播の間にこの地の豪族三浦氏(のち川尻氏)に勧請され,三浦氏居館の近くの矢留(やとめ)山・三森(みつもり)山(大嶽(おおたけ)山・小嶽山・光明(こうみよう)山)と称した丘に鎮座したと思われる。「総社」の称は,出羽国府(高清水秋田城)の総社であるとする説(秋田の土と人)や,皇太神宮のほか山城・大和の20社をまつってあるからだとする説(秋田の今と昔)があるが,「六郡祭事記」には,3月19日に「上野神明祭,城の西南川尻の里にあり,神明・惣社合殿。神職川尻氏。この社氏子甚多し。宵祭よりして参詣群をなす」とあり,神明社を除いても総社と称しているので,「羽陰温故誌」所引「秋田旧記」に「三嶽山総社大明神御鎮座記 出羽国秋田郡川尻郷三森山淵崎鎮座也 祭神三柱 八重事代主(やえことしろぬしの)神左 国作大己貴(くにづくりのおおなむちの)神中 味鉏高彦根(あじすきたかひこねの)神右」とあるように,この3神以下の合祀の状態で総社と称したのが本来で,神明は総社からは独立した祭神であった。慶長8年佐竹氏が三森山・神明山に久保田城を造るに当たり,社地を楢山(ならやま)村下浜(したはま)に,さらに元禄7年7月7日川尻上野の仮社地に移され,宝永4年9月6日社地成就社殿建立して遷座した。旧族川尻氏が別当となり,楢山南部・川口・川尻の鎮守として長く「総社の森」の緑を保つことになる。または平泉藤原清衡もこの神社を再興したことがあるとか,中世にも源頼朝が奥州入りの後,畠山重忠にこの神社の経営をさせたとか,源氏と関係深い社伝を持つためか,佐竹氏が居城の地の旧鎮座神に対して捧げた崇敬は深く,修造・祭典などの料をことごとく藩が支弁し,宝暦8年2月重病の佐竹藩主義明は病気平癒を願う痛切な祈請書を奉ったりした。関連社である稲荷神社に「稲生(いなう)之富」という富突があった。2月初午の神事で,五穀と山海の珍品を供し,吉凶の文字を書いた富札を突いて運を試す「おみくじ」であった。1等になると神主川尻氏から大麻のほかに神前の供物を分け与えられるので人気があり,人々は群をなしたという。明治13年県社となる。祭礼は5月19日・10月19日。




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「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7021610