輪野村
【わのむら】

旧国名:出羽
(中世)戦国期に見える村名。天正18年12月19日豊臣秀吉が角館(かくのだて)城主戸沢光盛の当知行地を安堵した朱印状写に「輪野村」817石余(うち田66町・畠5町)とある(戸沢文書)。「仙北之内北浦郡御検地目録帳」の表題をもつ朱印状写なので,北浦郡内に当村を求めたが該当地なし。文禄3年六郷城主方で作成した「仙北中郡村々書上写」(湊家文書)に,「輪野むら」813石は平鹿(ひらか)郡に所属し戸沢九郎領であると記載。慶長年間作成という六郷兵庫頭領図(六郷の歴史)では,横手川と大戸(おおど)川の合流地点東南方に輪野村を図示し,「戸さわ分」と明記。近世秋田藩政下の黒川村に該当する地域であり,枝郷に上和野(上上野(かみのうわの))・下和野(下上野(しものうわの))の両村名がある。現在も上和野・下和野の小字名が現存。戸沢領輪野村は当地に確定できる。天正18年秀吉が破却を命じた戸沢氏支城35城中,9城は平鹿郡に属し,その1つに黒川城がある。当時の城主は戸沢家臣の黒川肥後守光武・縫殿助光宗父子であったという(戸沢家譜)。城館址については黒川の項を参照。なお秋田藩政下での黒川村は,慶長8年当時で村高1,151石余と推定。当初から上黒川村・下黒川村に二分され,享保年間には2村合わせて,枝郷16村を含み,村高1,685石余となっている。天正~文禄年間の輪野村は,近世の黒川村に直接継承するのではなく,枝郷和野村を含む下黒川村に該当するとみた方が実態に近い。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典」 JLogosID : 7023449 |