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大物忌神社
【おおものいみじんじゃ】


飽海(あくみ)郡遊佐(ゆざ)町大字吹浦(ふくら)字鳥海山の山頂に本社殿,字吹浦に吹浦口之宮,大字上蕨岡に蕨岡口之宮が所在。旧国幣中社。祭神は大物忌神。大物忌神について「大日本一宮記」「出羽国風土略記」などは倉稲魂(うかのみたま)神と同神であるとする。従って大物忌という神名は御饌津神として清浄を尊び汚穢を忌まれることから起こった神名と考えられる。また「三代実録」には出羽国司が当社について「大物忌神社は飽海郡山上にあり,巌石壁立し,人足稀に到る,夏冬雪を載き,禿げて草水無し」と朝廷に上申していることから,大物忌神が鳥海山の山の神であったことがわかる。文献上の初見は「続日本紀」で,承和5年5月出羽国従五位上勲五等大物忌神に正五位下を授け奉るとある。その後当社は度々昇位した。貞観12年4月8日の鳥海山の大爆発について,その状況が「三代実録」に生々しく記されている。墓や死骸で山水を汚したため神の怒りにふれたと解釈し,兵乱がおこることを恐れて,鎮謝の法を行っている。貞観15年には正三位を授けられた。鳥海山噴火のたびに神威を恐れて大物忌神社に叙位が行われたようである。さらに元慶の乱の際,出羽権守藤原保則が上奏し,大物忌・月山・袁物忌の3神は「上古時ヨリ征戦有ルニ方リ,殊ニ奇験ヲ標ス」としており,元慶2年封2戸を増し,計4戸となった。同4年には従二位,その後さらに正二位勲二等に進められたという。おそらく軍を発するごとに国司が祈祷し,験があったためと思われる。仁和元年神宮寺西浜に石鏃が降ったが,これは本社が月山神・由豆佐乃売神とともに不敬の崇として恠を成したものといわれ,国宰に勅して敬祭させられた。貞観4年大物忌神社を官社にしたと「三代実録」にある。これをもって神祇官から幣をうける官幣社となったという説もあるが,国幣社になったという意味と思われる。「延喜式」では名神・大社に列し,祭料2,000束が充てられていた。大物忌神は月山神とあわせ尊崇され,「鳥海月山両所宮」と称され,「出羽国一の宮」または「両所大菩薩」と尊信された。これは神仏習合の影響で,大物忌神の本地を薬師如来,月山神の本地を阿弥陀如来とし,これを神社内に安置して本地堂と称し,本社を両所大菩薩と称したからである。ここに鳥海修験が起こった。この鳥海修験は羽黒修験の配下にあったようだが,羽黒修験と異なるおもむきもあり,中世以来大いに栄えた。幕府や在地領主の尊崇も厚く,元和末年まで545石余の領田を有していたが,江戸期に将軍家より689石の朱印地を付せられた。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024109