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遠賀神社
【おがじんじゃ】


鶴岡市大字井岡に所在。旧郷社。祭神は豊岡比売神・稚彦霊神・鳴雷光神・大山祇神。創建年代不明。「延喜式神明帳」の「田川郡三座並小」の1つ「遠賀神社」と目される。はじめ鶴岡市大字岡山の岩台(伊波生台,伊波手井)の地にあったが,天長2年現在地に遷座したと伝えられる。また大和朝廷が出羽に兵を送った際,守護神として祀られ,その後井岡に城が構えられるに至って移されたという説もある(大泉村史)。岡山の岩台は井岡の南方にある台地で,神鏃を降らす霊地といわれた。また,江戸期から石器・土器・土偶などの出土が見られ,縄文時代から古代に及ぶ複合遺跡岡山遺跡がある。明治初期に著された「筆濃余理」には,岡山村伊波生台が現在は畑であるが,地形の模様などから遠賀神社の跡があり,さらに岡山は遠賀山の名によると記している。天長年間井岡に移り,井岡(せいこう)寺を創設して別当とし岡大権現と称したという記載が「山形県神社誌」にあるが,「山形県寺院総覧」の井岡寺の項には,天長2年源楽上人が井岡の地に天皇の勅願所として阿迦井坊遠賀井寺を開山し,同時に岡山の伊波手井山にあった大山祇神を奉遷して,その守護神としたとある。長禄4年武藤氏宿老で大網(現東田川郡朝日村大字大網)の楯主渡野辺四郎左衛門重吉が奉納した2面の懸仏(井岡寺所蔵)の銘に「岡大権現御正体 大山祇命 別当綱首遠加野井寺」「地主岡大権現 御正殿 執行別当遠加野井寺」とあるのがその初見。このように遠賀神社は岡大権現本地勢至菩薩の合祀によって神仏混淆となり,遠加野井寺は当社の宮寺として執行・学頭の職を持ち,観音を本地仏とした本地堂であった。往時は井岡より岡山の2,3町の間には数多くの宿坊が軒を連ねて並(浪)の町と呼ばれ,東は現在の国道345号(田川街道)付近まで,北は現在の大字寺田に至り,西は白山林のはずれ一本杉まで山内であった。広荘華麗を極めて州中の巨藍と称され,遠加野井寺は出羽高野とも号したという。幾多の兵火にあい,天正年間の兵乱には本社をはじめ堂宇ことごとく焼失したと伝えられる。その後,慶長17年に至って最上義光より井岡寺領として,学頭・坊中6か寺・社家・神子などに対し,井岡村地方より合せて142石余,見出29石余,計172石余の寄進を受け(黒印状13通),これによって岡大権現は井岡寺とともに再び隆盛をみることができたと思われる。明治初年まで井岡寺と共同の建築物として,神式社殿は神門・拝殿・本殿・神楽殿・直会殿外末社9社,仏式として本地堂・観音堂・ほか9・末寺6か寺を有していた。明治5年延喜式内社遠賀神社と改称。同9年郷社に列した。この頃神仏分離により井岡寺との境界などが定められている。同11年類焼のため社殿12棟を残らず焼失。同15年本殿を新築。同40年境内末社を合併。現在境内5,352坪,境外末社として生国神社がある。氏子は井岡・岡山・寺田の3集落147戸。例祭は5月1日。獅子頭廻村3月3日。




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「角川日本地名大辞典」
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