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小物忌神社
【おものいみじんじゃ】


飽海(あくみ)郡平田町大字山楯に所在。旧県社。祭神は豊受姫命・級長津彦命・級長津姫命の3神。古来三之宮大座(だいざ)明神,または吹浦(ふくら)大物忌神社第三王子とも呼ばれた。飽海郡に鎮座する三式内社のうちの1つ。社伝によると景行天皇の治世,武内宿禰の北海道巡視の際,初めて官籍に録せられたという。確実な史料上の初見は「延喜式神名帳」で飽海郡三座中の小一座と示されている。「延喜式神名帳」以前の「三代実録」元慶2年8月4日条に出羽国の従五位下勲九等袁物忌神に勲七等を,さらに同4年2月27日に従五位上を授けるとの記載がある。この袁物忌神の名は「延喜式」以降全く見えないことや「袁」と「小」はともに「を」(お)と同訓であることなどから,袁物忌神と小物忌神は同一神とも推定される。小物忌神社の西方1kmの地点に飽海郡郡衙があった。寛治5年源義家の東国遠征の際,賊軍の勢いが強く,不利であったため部下の首藤主馬に大物忌・小物忌両社に祈らせたところ戦勝に転じ,帰陣の後大刀と鏑矢を奉納したと社記にある。しかしこの伝承は一種の地方伝承であり,そのままは信じがたい。天正年間に兵火によって社殿は焼失し,社領は武藤氏に没収された。酒井忠勝が庄内に転封された後,漸次社殿が修造された。当社がもと大座明神と称されたのは,往古兵火にかかり神体は焼失し,台座のみが残ったのを神体代わりに安置したことにちなむという説もあるが不詳。おそらく戦国の頃,付近の豪族などによって社領などを奪われ衰運をたどったと推定される。宝暦9年山楯の長久寺が別当となり,境内地に経蔵や仏壇を構えたので,遂に観音が主となり大座明神の称号は公けの簿帳に漏れるに至った(出羽国風土略記)。当社は明治9年新たに上記の3神を祀り,小物忌神社と公称して郷社に列した。翌10年国幣中社大物忌神社の摂社となり,同35年3月県社に昇格,同40年3月に神饌幣帛料供進神社に指定された。「延喜式神名帳」に見える小物忌神社の所在については,飛島(酒田市)の大宮神社,観音寺(飽海郡八幡(やわた)町)の飛沢神社,下当(しもと)(飽海郡遊佐(ゆざ)町大字当山)の剣竜神社,あるいは大山(鶴岡市)の椙尾(すぎのお)神社など,古来諸説があり厳密には不詳である。しかし平田町所在の当社の付近には古くから三之宮の地名が残っていることから推定して,当社がその最も有力な候補と思われる(飽海郡誌)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024269