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鍛冶町②
【かじまち】


旧国名:出羽

(中世~近代)戦国期~昭和46年の町名。明治17年から一時期山形を冠称。戦国期および江戸期は山形城下のうち。東根市真木滋夫氏所蔵の鏡銘(県史15下)に「天正山形鍛冶町」とあるのが初見。天正年間から文禄年間の山形城大改築以前は,当町は飯塚口付近にあったものと思われ,城下絵図には飯塚口にあたるところに「元鍛冶町」「本鍛冶町口」と記されている(高橋信敬:最上時代山形城下絵図)。最上義光は山形城大改築に際して城下の改造を行い,当町における火気の使用を理由に,銅町とともに,馬見ケ崎川の北部に移転させたという。江戸期には東は六日町,南は旅籠(はたご)町・小鍄(こかすがい),西は四日町,北は宮町と接する。寛永13年の領地目録(家世実紀)には,鍛冶町の名は見えない。町として取り立てられた年次は不詳。元禄年間には,北の円応寺の方に南北に延び,これを新鍛冶町と称している。元禄年間の鍛冶町は屋敷数38軒,家主32,借家・店借8,人数249,鍛冶93。新鍛冶町は屋敷数60軒,家主54,借家・店借8,人数248,鍛冶24(山形城下新古銘細記/山形市史資料40)。「最上千草」に「鍛冶町は残らずかじや也。新鍛冶町も同じ。鍋鉄にて庖丁打申候。名物なり」とあり,「松の木枕」には「山刀・鎌・鍬・庖丁金物職人」とある(山形経済志料)。天保13年の村山石高帳および「旧高旧領」では「四日鍛冶町」として高104石余。慶応年間に中屋七三郎らによって丸焼の技術が会津(現福島県)から伝えられ山形鋸の名声を得ていたが,明治7・8年ころより不況に陥った。のち明治25年から同30年にかけて稲扱機や鋸の生産が活況を呈した(山形市史)。明治7年鍛冶町学校設立。明治11年の一覧全図では,戸数110・人口552。同22年山形市の町名となる。昭和26年の世帯196・人口990。同39年の住居表示実施により一部が相生(あいおい)町・宮町1~5丁目の各一部となり,残余は同44年から46年にかけての土地改良事業によって島・河原田・立道などの各一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7024310