100辞書・辞典一括検索

JLogos

17

清水街道
【しみずかいどう】


新庄街道ともいう。新庄城下(現新庄市)と最上川の河岸本合海(現新庄市)・清水(現最上郡大蔵村)を結ぶ街道。全長約2里。城下から飛田・福宮・宮野(現新庄市)・本合海を経て清水河岸に至る。福宮から大坪・合海(以上現大蔵村)を経て清水に出る脇道もある。最上川の乗船に際し藩士は合海町村(現大蔵村),庶民は本合海町村からとする定法があった。庄内地方と最上地方を結ぶ陸路は最上川右岸の現最上郡鮭川村から与蔵峠を越えて現飽海(あくみ)郡平田町域に至るものが主であり,清水街道はあくまでも最上川舟運の連絡道の性格が濃い。松尾芭蕉の主従も新庄2泊の後本合海に至り,この地で乗船し古口(現最上郡戸沢村)・清川(現東田川郡立川町)と船で下っている。本合海の対岸には枝郷畑集落があり,その西方の蔵岡村(現戸沢村)を経て古口に達し,古口より板敷越で清川に抜ける陸路もあったが,相当の難路で利用は少なかった。明治期に入ると初代県令三島通庸のもとに県内諸道の整備や新道の開削が進められたが,明治10~11年古口~清川間に磐根(いわね)新道が建設されると庄内・最上両地方の陸上交通が可能となり,明治11年には最上郡舟形村と本合海との間に新道が建設され,次いで13年本合海~新庄市郊外の金沢までの道路が整備改修されて本合海新道と呼ばれた。明治14年の天皇奥羽巡幸に際しては,新庄より本合海新道で本合海に出て対岸に渡り,磐根新道を通って庄内を巡り,帰路も同コースを用いた。本合海の渡河に際しては,7日の間川船の通行を一切禁止し,川幅1町2間余に船を並べその上に板を敷き渡した浮橋を作っている。明治36年国鉄奥羽南線新庄駅が開業すると庄内向けの貨物・旅客が同駅に集中するようになり,本道は本合海に向かう人馬で大いににぎわった。最上郡内で人力車が最初に走ったのも本道であるという。またこの頃には大石田~清川間に定期蒸気船(外輪船)が運行された。本合海と対岸の畑村との間は架橋されなかったため,川の上にワイヤーを張り,これに渡船をつないで馬・荷車・自動車などを渡した。大正3年国鉄酒田線(現陸羽西線)が開通すると貨物輸送の主流は鉄道に切り換えられ,本合海は衰退した。昭和9年鉄橋の本合海大橋が完成し,街道の一部は現在国道47号となり,最上・庄内両地方連絡の幹線となっている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7025416