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神宮寺
【じんぐうじ】


「三代実録」および「延喜式」に見える神社。月山・大物忌神の別当寺と推測される。「三大実録」の仁和元年6月21日の項に「飽海郡神宮寺西浜雨石鏃」と記され,「延喜式」に「出羽国正税廿万束」のうち「神宮寺一千束」とあるが,詳細は明らかでない。月山・大物忌の2神を同所に祀るため出羽国一宮両所山神宮寺といわれ,別当・学頭として一山衆徒25坊を率いる貫主とされた。ほかに教観院とも称し,旧跡は学頭坊の寺名として梵宮山光勝寺ともいわれて現寺跡の東北にあったが,大字吹浦(ふくら)字衣倉に移転したものとされる(飽海郡誌)。蕨岡(遊佐町)にあって順峰方と称し,入峰の規式や山上の支配権を握り,大物忌神社への吹浦衆徒の奉仕権を否定していた松丘山観音寺と度々対立し,論争がくり返された。光勝寺本地堂において仏家の法を修して天下国家を祈ることを職とするとされ,もと天台宗であったが宝永年間江戸護持院に属したことより新義真言宗となった(出羽国風土略記)。真言宗に転じた後も山王講式(毎月24日)・天台大師講(11月24日)などの伝統法会を残していたとされる(戸川安章:鳥海山と修験道)。「筆濃余理」は寛永5年焼失の黒印状には両所山大物忌神社の黒印高130石余,地方吹浦村,うち35石が学頭領で「其余一同配分ス」としている。明治に入り神仏分離の際に衆徒は還俗神式を以て社頭に奉仕したが,寺宝の多くはその際末寺女鹿村(現遊佐町)の松葉寺に撤却されたと伝えられ(飽海郡誌),その後衰退し,明治40年代には廃寺となった。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典」
JLogosID : 7025698