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出羽神社
【でわじんじゃ】


東田川郡羽黒町羽黒山に所在。旧国幣小社。祭神は伊氐波(いでは)神,社伝は倉稲魂命あるいは玉依神とする。羽黒山の開山については崇峻天皇の御子蜂子皇子(能除太子)とされ,現在も境内に蜂子神社が祀られている。しかし出羽神社の草創時のことは不明。伊氐波神は「延喜式」の式内小社で,出羽国の生命を祀った神社,つまり出羽国魂神社ともいうべき神社であった。羽黒山は最初の出羽国府跡とする説が有力である平形付近の端山の中でも最も目立つ峰で,ここに国魂神社の社殿が建てられたのも偶然ではない。神祇信仰の発達とともに,山自体を神とした月山や湯殿山よりも,社殿祭祀の羽黒山出羽神社が栄えていったと思われる。伊氐波神社に神宮寺として寂光寺が建立され,神仏習合が進んだ。本地垂迹説の成立後は,伊氐波・月山・湯殿山神の本地はそれぞれ観音・弥陀・大日と考えられるに至った。羽黒山にはかなり古くから行者がいたらしいが,彼らは月山や湯殿山も開いてこれを験所とし,熊野三山に擬して出羽三山の信仰をつくりあげ,羽黒修験が栄えていった。平安末期から鎌倉期にかけて羽黒修験は最盛期を誇ったと思われる。歴朝武将の尊敬が厚く,後堀河天皇の造宮をはじめとし,源頼義・義家が戦勝を祈願したという。建久4年源頼朝は黄金堂を建立し,武家不入の特権を与えた。承元3年には羽黒山衆徒が大泉荘地頭武藤氏平が寺田をかすめ,山中に干渉したと幕府に列参し,氏平は懲戒された。13世紀終り頃にも1人の羽黒山伏がとらえられ斬首されたのに抗議して羽黒山伏たちが幕府に直訴し,関係幕吏が処罰されている。また羽黒修験は武力をもっていた。承久2年後鳥羽上皇が腹心の二位法印尊長を羽黒山総長吏に補任したのも討幕のための布石であったと思われる。これを知った幕府は家人の真田家久を所司代として羽黒山に派し,尊長の入山を阻止したという。正平2年北畠顕信が守永親王を奉じて立谷沢城(現東田川郡立川町)によったのも羽黒衆徒の援助によるものであった。永享7年足利義政と細川持氏が出羽三山の御正体を本社に奉納した。文安2年には藤島城主土佐竹氏光が本社を修造している。土佐竹氏は羽黒修験に属する藤島宮目寺衆徒の中からでた豪族で,「三山社務」という古名を名乗っていた。羽黒の神威もようやくゆるぎ,地力の武士の勢力が伸びてきた。文明4年庄内領主武藤政氏が羽黒山別当を兼ねるに及び,武家の勢力が山中に介入し,羽黒山伏の多くが武藤氏の配下に属するようになった。しかし天正末期武藤氏が豊臣秀吉により放逐され,山中の武家勢力が除去された。慶長7年に最上義光の領国となると,義光は堂塔を修理し1,500石を寄せている。この社領は江戸期徳川家綱に朱印地として安堵され,歴代かわることなく,また庄内藩主酒井忠器が本殿(三山合祭殿)を再建した。羽黒修験は修験場として中世には坊舎7,000と称され,江戸期にも,坊舎30坊・山伏76坊の寺勢を有し,羽黒山伏として自立し,いずれの派にも属さなかったが,幕府は寛永年間に天台宗輪王寺末に付した。明治維新における神仏分離に際し,三山の旧制は全く乱れたが,明治6年列格となる。




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「角川日本地名大辞典」
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